細川 ガラシャ。 細川ガラシャ夫人(上) (新潮文庫)

宮津城 丹後の中心地と細川ガラシャも暮らした大久保山城

細川 ガラシャ

細川ガラシャの辞世の句 細川ガラシャの「辞世の句」は、とてもよく知られています。 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」 花も人も散りどきを心得てこそ美しいという意味です。 「花は散りどきを知っているからこそ花として美しい、私もそのようにありたい」という素晴らしく美しい覚悟を伝える句ですね。 「辞世の句ランキング」1位になるのももっともなのです。 最期にこんな達観した心でいられるなんて、本当に信仰心が深かったんだなと思えます。 彼女の夫・細川忠興はかなりエキセントリックな性格で、切れやすく嫉妬深いというめんどくさい旦那でした。 ガラシャ夫人も実は似たようなもので、かなり気が強かったらしいです。 細川忠興は戦いに行くとき、敵にの人質になるぐらいなら死ねと妻に言っていたそうですが、戦国時代はそういう考え方だったのでしょう。 彼女は夫の言いつけを守り、また自分の主義に従って人質になる前に、この時勢の句を詠んで果てたのです。。 細川忠興はガラシャの死の報告を受け、たいへん悲しみ「関ケ原の合戦」では東軍として戦いました。 そして、1601年にオルガンティノにガラシャの 「教会葬」を依頼して、自らも葬儀に参列します。 変人だったけど、なんだかんだいって、細川忠興は妻を愛していたんでしょうね。 遺骨は、その後、大坂の崇禅寺に改葬されました。 他にも、京都大徳寺塔中高桐院など、いくつかガラシャの墓所とされている場所があります。 それでは、ここから細川ガラシャの生い立ちをさかのぼってみていきます。 実は明智光秀の娘で名前は「珠(たま)」だった 細川ガラシャは、明智光秀の三女・ 明智珠(玉)(1563年~1600年)として生まれました。 珠が15歳のとき、細川忠興と結婚しました。 この縁組は、父の明智光秀が織田信長にすすめられてまとまったものでした。 夫の細川忠興は強烈な性格の人でしたけど、お似合いの美男美女カップルで、夫婦仲はよかったようです。 でも、1582年6月、そんな平穏な結婚生活が一変してしまう大事件が起こってしまいました。 父・光秀が主君の信長を討つ「本能寺の変」です。 明智光秀は、細川家に援軍を要請しましたが、細川忠興はそれを拒否し、光秀は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らの軍に滅ぼされました。 (山崎の戦い) 珠はそのとき「逆臣の娘」になってしまったのです。 夫の細川忠興は、珠を丹後国に幽閉しました。 離縁されてもおかしくない状況なので、この処遇はそんなにひどいものではないと思います。 それに、幽閉とはいっても、屋敷を建て軟禁したようなものですから。 それから2年後の1584年には、羽柴秀吉の取り成し、珠は細川家の大坂屋敷に戻ることができました。 キリシタン「細川ガラシャ」として生まれ変わる 珠が幽閉を解かれた3年後(1587年)に、夫の忠興は九州へ出陣しました。 (九州征伐) 珠は、もともと出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していのですが、忠興がキリシタン大名の 高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに魅かれていきます。 宗教心の強い人だったのでしょう。 そして、忠興が九州征伐で不在のとき、身分を隠してこっそり教会に行き洗礼を受けることを望みました。 でも、このときは、彼女の身なりから高貴な女性と分かったため、教会側が洗礼を見送ったといわれます。 その後、秀吉によって 「バテレン追放令」が出されました。 珠はなんとか洗礼を受けたくて、宣教師たちが九州に行く前に大阪のイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父と連絡を取り、自邸で 清原マリア 公家・清原枝賢の娘 から密かに洗礼を受けたのでした。 その洗礼名が 「ガラシャ」です。 ガラシャは忠興には、すぐにキリスト教に改宗したことを伝えなかったといわれています。 ガラシャの最期 九州征伐から帰った忠興は、側室を5人を持つなどと言い出しガラシャに辛く当たるようになりました。 ガラシャは離婚を望みますが、キリスト教では離婚は教義に反するので、なんとかがまんしましょうと宣教師になぐさめられます。 そして、1600年、忠興は上杉征伐 会津征伐 に向かいました。 出立に際して、忠興は家臣に「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、妻を殺し、家臣全員共に切腹して果てるように」と、命じていました。 ガラシャも武家の妻としてそのことは、心得ていました。 これは、当時の武家の習いとしては、当然の命令だったのです。 石田三成は、家康の虚を突いて大阪で挙兵しました。 そのとき、 石田三成は、まず(仲が悪かったからともいわれる)細川家の妻女を人質にしようと考えたのでした。 諸大名の妻子を人質にすると、自分(西軍)に味方する大名が増えると見越しての行動です。 でも、細川屋敷のガラシャは、これを断固拒否したのです。 数度の要請を受けましたが従わなかったため、ついに三成は軍を率いて細川屋敷をとり囲み実力行使に出ました。 ガラシャは侍女たちを外へ逃がし、自分は奥の部屋でお祈りをしました。 そして、キリスト教は自害を禁止しているため、家老の小笠原秀清 少斎 がガラシャの胸を突く(首を落としたとも)という形で亡くなったのです。 その後、秀清は、屋敷に爆薬を仕掛けて火を点けた後、自刃して果てました。 細川ガラシャの死の影響 細川ガラシャに最期まで抵抗されて、石田三成は、今後、大名の妻を人質に取るのを断念しました。 ガラシャが亡くなったとき、細川屋敷には忠興とガラシャの嫡男・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいました。 そのとき千世は、侍女らと共に屋敷を脱出して、 姉の豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れたのです。 息子の嫁だけ逃げ出したことに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じました。 でも、忠隆はこれを拒否します。 それにぶっちギレた忠興は、とうとう忠隆を廃嫡してしまったのでした。 さすがに切れやすいお人です。 すごい形に発展してしまいました。 その後、忠興は、次男を差し置いて徳川家にパイプがある三男・忠利に家督を相続させます。 これに、不満を抱いた次男の興秋は、父に反発して「大坂の陣」で豊臣家に味方したのです。 そうして、最終的には徳川方が勝ったので、父の忠興に命じられて切腹して果てました。 おわりに 細川ガラシャはその壮絶な最期と美しい意味の「辞世の句」で、後世の人々の心を打ちます。 そして、その散り際は宣教師によって欧米にまで伝えられ、 オペラの主人公になりました。 そのオペラの名前は 「気丈な貴婦人 Mulier Fortis」 といいます。 この戯曲はオーストリアのハプスブルク家の姫君たちに特に好まれ、てよく公演されていたそうです。

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細川 ガラシャ

信長配下で当時最もときめいていた明智光秀の娘として産まれ、信長の肝煎りで、父と懇意の細川藤孝の長男・忠興に嫁いだ「たま」は、その美貌と聡明さにより、庭師の息子や夫の実弟にまで恋をされる…。 という、美人でモテモテな「たま」が、何故キリシタンになったのか。 というお話です。 上巻は、忠興との夫婦仲も良く子どもにも恵まれ、幸せの絶頂にある「たま」の下に、本能寺の変の報せが届くところで終わります。 「たま」は身重の身で、丹波の山奥に捨てられてしまうのでした。 上巻の「たま」は聡明ではあるけれど驕慢なところがあり、キリシタンの侍女「まりあ」に対しても挑戦的です。 さて、丹波の山奥で「たま」は、どうなってしまうのでしょうか? 細川忠興の妻としてこよなく愛されながらも、明智光秀の娘、またキリシタンということで、波乱の人生を送らなければならなかったガラシャ夫人。 女性の立場がたいそう弱かった時代に、自分をしっかり持ちつつ最後まで信念と愛を貫き通す。 この本は、歴史上の人物を、しかも主人公のガラシャ夫人だけでなく、その時代に生きた織田信長、豊臣秀吉、高山右近、千利休、細川忠興、徳川家康、明智光秀、またガラシャの母、祖母、忠興の兄弟、家臣にいたるまで、よく調べ上げられ、一人ひとりが生き生きと描かれていることにより、この物語がとても奥深いものとなっている。 歴史が苦手な私でも、感情移入して読めるので、歴史上の人物たちをとても身近に感じることができた。 「本能寺の変」以降逆心の娘となった玉子に押し寄せる不幸。 お家大事の細川家父子は、玉子を離縁したと見せかけるため、丹波の山奥味土野へ幽閉する。 愛する幼子や夫と別れ、見知らぬ山奥での生活は、淋しくつらいものであった。 そんな玉子の心を癒してくれたのは佳代であった。 最初は「神も仏も信じたくありませぬ」と言ってた玉子も、次第に佳代の裏表のない気高い考え方に共感し、信仰の道に目覚めて言った。 やがて、天下分け目の「関ヶ原の戦い」夫は最初から徳川方に付くつもりだった。 夫が徳川に付いて出兵した後。 石田光成は大名の夫人たちを人質にしようとしたが、これを拒み、玉子は信仰の教えで自害はできないので、重臣に槍で胸を突かせ、37歳の命を絶った。

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細川ガラシャ

細川 ガラシャ

Contents 目次• の三女(次女ともされている)で、 の正室。 諱は「たま」(玉・珠)または玉子(たまこ)。 法名は秀林院(しゅうりんいん)でキリスト教信徒(キリシタン)。 【 との子供】 長女:於長(長)(おちょう: 前野景定正室)、 長男:忠隆、 次男:興秋、 三男:忠利(豊前小倉藩の第2代藩主。 後に肥後熊本藩の初代藩主)、 三女:多羅(たら: 室)、 四女:萬(まん) (但し、側室である の娘の小也が産んだとも) 【呼び名】 明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて 「 」と呼ぶようになりました。 そのため、現在でもこのように呼ばれる場合が多いです。 但し、戦国時代では、基本的には夫婦別姓であり、 実家の苗字や出身地の地名で 称されることが当たり前だったようです。 【生い立ち】 永禄6年(1563年)、 と妻・煕子の間に三女として 越前国にて産まれました。 福井市東大味町にある「 」には 「明智光秀公三女細川ガラシャゆかりの里」と 刻まれた石碑があります。 別の説として次女説もあります。 【同い年の忠興に嫁ぐ】 天正2年、 父である明智光秀の主君・ の発案により ( )の嫡男である 細川忠興(ほそかわただおき)と (珠)が婚約します。 織田信長は家臣である明智家と細川家が 「縁家」になるようにとの命令でした。 織田信長は家臣同士の結束を更に強固なものにすべく、 家臣間の婚姻を統制して 取り仕切る様になっていったそうです。 それは主君の命令による婚姻、 「主命婚」と言われています。 天正6年(1578年)8月、 細川藤孝の嫡男である細川忠興に嫁ぎます。 勝龍寺城に輿入れとなりました。 夫となる細川忠興も永禄6年(1563年)生まれで 二人は同い年ということになります。 【美男美女の夫婦】 二人の仲は仲睦まじく、 天正7年(1579年)には 長女である長(または於長)が、 同8年(1580年)には 長男(細川忠隆、後の長岡休無)が 2人の間に生まれています。 細川忠興も (珠)(のちの細川ガラシャ)も、 美男美女で、織田信長は二人の並ぶ様をみて 「まるで人形の様に可愛らしい」(訳)と言ったとか。 細川忠興はイケメンだけではなく、 父親譲りで文武両道だったと伝わります。 ただ、物凄い短気で、 家臣が自分の意に添わなかったり、 気に入らないことをやってしまったりすると 手打ちにしてしまう程だったそうです。 【幸せな日々】 勝龍寺城で2年を過ごした後、 天正8年(1580年)8月、 夫である細川忠興が丹後12万石を与えられたことから、 丹後 、次いで に移ります。 ただ、この頃はまだ平城の宮津城は完成しておらず、 現在の宮津市の市街地にある小高い丘となっている場所・ にいたとされています。 天正9年(1581年)4月12日、 細川藤孝(細川幽斎)・細川忠興親子の招きを受けて、 明智光秀、茶人の津田宗久(つだそうぎゅう)、 連歌師の (さとむらじょうは)が宮津を訪れます。 その時、明智光秀は二人の息子を同行させていたとか。 明智玉(細川ガラシャ)もきっと、 父と弟たちと対面かもしれませんね。 ここまでが幸せな日々であったと思います。 【 】 【謀反人の娘へ】 しかし天正10年(1583年)6月、 父の明智光秀が織田信長を で討って(本能寺の変)、 自らも 後に滅んだため、 明智玉(珠)(細川ガラシャ)は「謀叛人の娘」となりました。 細川忠興は天正12年(1584年)まで 明智玉(珠)(細川ガラシャ)を 丹後国の味土野(現在の 府京丹後市弥栄町) に幽閉します。 【実際は保護していた?】 父の明智光秀が横死すると、細川家の家臣の中には、 「謀反人の娘」が正室であっては、 細川家も特に から疑われてしまう事を避けるために この時20歳であった玉(珠)に自害をすすめたとも 伝わっています。 ですが、玉は 「自分は忠興の妻であり、主人の命を聞かずして 事を決するのは婦道に反する」 と見事に反論したとも伝わっています。 細川忠興は、本能寺の変から3ヶ月後、 細川家のため、そして、 玉(珠)が他の旧織田家の武将から 襲われないようにするため、 「離縁」という形をとることにしました。 けれども、帰る処がなくなってしまった玉を 追い出すわけにもいきません。 そこで、味土野に隠棲させることにしたのでした。 更に、味土野は自分の領地でありながら、 明智の茶屋があった場所でもあったそうです。 玉を明智家の茶屋のあった地に住まわせることで、 形式上は送り返したことになり、 とやかく言われたり、疑われることがなくなります。 【幽閉先の味土野へ】 とはいえ、現在でも山深く、細い道があるだけで 携帯電話も「圏外」になってしまう場所です。 「細川家」と「明智家」を結ぶことも叶わず、 父は無残な最期となり、その変わり果てた姿を 実際にはみたかどうかは不明ですが、 聞き及んでいたとは推測できます。 子供とも離され、四方を山に囲まれた何もない場所で 2年間、ひたすら耐えて過ごすことになるのです。 この間の明智玉(細川ガラシャ)を支えたのは、 結婚する時に付けられた小侍従や、 細川家の親戚筋にあたる 清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘) らの侍女達だったそうです。 尚、京都府宮津市字喜多696にある (せいりんじ)の境内には、 明智光秀の供養塔があります。 宝篋印塔首塚と伝えられており、 大久保山城にいた明智玉の処へ送られ、 供養したと考えられています。 【忠興の意図】 当時、離婚となると妻は 里方に帰されるのが普通でした。 そして正室がいないわけですが、 お家のためにも継室を置きます。 まして、謀反人の娘ともなると、 夫が命令を下して、 自害となることもありました。 それをしなかったのは、 明智家がすぐに滅び、 帰る処がない・・・という事情もありますが、 それは表向きだったかもしれません。 明智家の「茶屋」があった 味土野に送られたことから、 細川忠興には明智玉(珠)への愛情が 深かったからだと指摘されています。 現在でも山深く、通行するのが困難であるのに、 細川忠興はわざわざ足を運んでいるのですから。 そして隠棲・幽閉されているにも関わらず、 明智玉(珠)は、 次男である興秋を産んでいます。 明智玉(珠)が住んでいた屋敷は、 (みどのめじょう)とされており、 現在は、近年になって建立された 「細川忠興夫人隠棲地」と刻まれた 石碑があります。 また、この「味土野女城」からほど近い場所には 細川家の武士たちが住んでいたとされている 「味土野男城」があったそうです。 【信仰】 【キリシタンへ】 天正12年(1584年)3月、 織田信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉に許され、 明智玉は、幽閉を解かれて宮津に戻り、 其の後、細川忠興は明智玉を細川家の大坂屋敷に移します。 天正14年(1586年)には三男で 後に豊前小倉藩の第2代藩主で、 その後に肥後熊本藩の初代藩主となる忠利を産んでいます。 それまでは出家した舅である 細川藤孝改め細川幽斎とともに 禅宗を信仰していた明智玉(珠)でしたが、 細川忠興が から聞いたカトリックの話をすると、 その教えに心を魅かれていったとあります。 けれども、改宗に至る内面的な動機については、 記録がなく、はっきりとしたことはわかっていません。 三男の忠利(幼名・光千代)が病弱のため、 明智玉(珠)は日頃から心配をしていました。 天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、 夫の細川忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、 明智玉は、彼岸の時期である事を利用し、 侍女数人に囲まれて身を隠しつつ 教会に行ったとされています。 教会ではそのとき復活祭の説教を 行っているところでした。 明智玉は日本人のコスメ修道士に いろいろな質問をしたそうです。 コスメ修道士は後に 「これほど明晰かつ果敢な判断ができる 日本の女性と話したことはなかった」と述べていたとか。 明智玉(珠)は、 その場で洗礼を受ける事を望みましたが、 教会側は明智玉が誰なのか分からず、 彼女の身なりなどから 高い身分である事が推測できたので、 洗礼は見送られたそうです。 細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから 明智玉(珠)が外出したことに気づき、 教会まで迎えにやってきて、 駕籠で明智玉(珠)を連れ帰りました。 教会は1人の若者にこれを尾行させ、 明智玉が細川家の奥方、 玉(珠)の方であることを知ったとされています。 【洗礼を受けてガラシャへ】 再び外出できる見込みは全くなかったので、 明智玉(珠)は洗礼を受けないまま、 侍女を通じた教会とのやりとりや、 教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいました。 この期間にマリアをはじめとした侍女たちを 教会に行かせて洗礼を受けさせています。 しかし九州にいる が バテレン追放令を出したことを知ると、 明智玉(珠)は宣教師たちが九州に行く前に、 大坂に滞在していたイエズス会士 グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、 自邸でマリアから密かに洗礼を受け、 ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。 ただしラテン語名に関して、 ローマ・バチカン式発音により近い 片仮名表記は「グラツィア」) という洗礼名を受けたとされています。 バテレン追放令が発布されていたこともあり、 九州から帰国した細川忠興は 受洗を怒り棄教させようとしたそうですが、 明智玉(珠)改め細川ガラシャは頑としてきかず、 ついに細川忠興も黙認することになったとあります。 【夫と別れたい】 九州から帰ってきた細川忠興は 「5人の側室を持つ」と言い出すなど、 ガラシャに対して辛く接するようになります。 ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けます。 キリスト教では離婚は認められないこともあり、 宣教師は「誘惑に負けてはならない」 「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、 思いとどまるよう説得したとあります。 【三女と四女誕生】 やがて、 天正16年(1587年)に 三女の多羅(たら)を産みます。 この多羅は後に稲葉一通(いなば かずみち)に嫁ぎます。 そして、その子孫が天皇の母となるのです。 三女が誕生してから10年後の慶長3年(1598年)には、 四女の萬(まん)が誕生しています。 但し、この四女である萬は 側室である明智光忠の娘が産んだともされています。 【 へ】 慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、 細川忠興は に従い、上杉征伐に出陣します。 細川忠興は屋敷を離れる際は 「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、 日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、 わが妻とともに死ぬように」 と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、 この時も同じように命じていたとされています。 【壮絶な最期】 この隙に、西軍の は 大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとし、 ガラシャはそれを拒絶しています。 その翌日、石田三成が実力行使に出て 兵に屋敷を囲ませました。 家臣たちが細川ガラシャに全てを伝えると、 細川ガラシャは少し祈った後、 屋敷内の侍女・婦人を全員集め 「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、 彼女たちを外へ出したとあります。 その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、 家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、 ガラシャの遺体が残らぬように 屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃しました。 享年は38歳でした。 「細川家記」の編著者は、彼女が詠んだ辞世として 「 散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」 と記しています。 そしてこの句が父である明智光秀が で詠んだ句を 踏まえたものであるとの見解が近年されているそうです。 明智光秀: 「 ときは今 あめが下しる 五月かな」 ガラシャの句の「時」と光秀の句の「とき」は いずれも「土岐氏」の「土岐」を表しているともされています。 【細川ガラシャの苦悩】 それを鑑みると、 本能寺の変のあとのガラシャの苦悩が 深く悲しみに満ちており、 父である明智光秀と、 夫の細川忠興、岳父の細川幽斎との板挟みになり 全てが引き裂かれるような 苦しい立場であっただろうと推測できるのです。 皆、大切な存在であるからそれは尚の事です。 【明智光秀の気質を継いだガラシャ】 細川ガラシャは、気位が高く気性の激しさがあったと 「細川記」には記されているそうです。 但し、洗礼を受けてからは 穏やかで謙虚で忍耐強くなったと されているそうです。 この洗礼後の性格の描写が、 父親の明智光秀の足跡と重なる部分があります。 前述した宣教師が語ったとされるガラシャの聡明さも 父親の光秀を彷彿とさせます。 気性の激しさも、恐らくは 元々持っている気質の一つであると思われますが、 光秀も戦場において、 時にはかなりの非情さや冷酷さを見せて、 徹底的に叩き潰しています。 そんなところもよく似た父と娘であったかもしれません。 【その後】 【ガラシャの死後】 ガラシャの死の数時間後、 神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは、 細川ガラシャの侍女である霜(しも)の報告を受けて 細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い上げました。 この霜(しも)という名の侍女は、 細川ガラシャの最期を看取った女性でした。 のちに「霜女覚書」を書き上げています。 また、イエスズ会の「1600年日本年報」にも 細川ガラシャの最期が記されていて、 二つの文書の記述内容がほぼ一致しているとのことです。 なお、ガラシャの遺言も記されているとの事です。 「子供のことは、私のために子であれば、 忠興のためにも子であるから、 改めて言うには及ばない。 三宅藤兵衛を頼りにしている、 この上言わずもがなのことながら、 側室「藤」を正室代わりにされることはないように」 【三宅藤兵衛(三宅重利)】 三宅 重利(みやけ しげとし)は、 安土桃山時代から江戸時代の武将。 幼名は師、与平次とされています。 肥前唐津藩士で、富 代。 通称の三宅藤兵衛の名で知られています。 父は明智光春(秀満)、 母は明智光秀の娘(ガラシャの姉、お藤とも)とされています。 しかしながら、京の貴族 は 丹波で捕えられた明智光秀の娘とその継子を保護した、 と日記に記していたことから、 三宅重利は明智光秀の血を引いてはいないことになります。 最も、三宅氏も土岐一族と言われていますが・・・。 【夫・忠興がキリスト式の葬式を営む】 オルガンティノ神父は、 ガラシャの骨を堺のキリシタン墓地に葬ったそうです。 細川忠興は戦場でガラシャの死を知り、 その場で泣き崩れてしまったと伝わっています。 の戦いの後の10月に建仁寺にて、 侍女より妻である細川ガラシャの 最期の様子を知ったとされています。 慶長6年(1601年)に オルガンティノにガラシャ教会葬を 依頼して葬儀にも参列しています。 ガラシャが生きていた頃、 激昂し、棄教させるように 迫っていた忠興でしたが、 ガラシャが望んでいたとされるキリスト教式の 葬式を執り行い、しかも参列したのでした。 その後、遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬しています。 他にも、京都大徳寺塔頭・高桐院や、 肥後熊本の泰勝寺等、 何箇所かガラシャの墓所とされるものがあります。 法諡は秀林院殿華屋宗玉大姉。 <崇禅寺のお墓> 【三男が家督を継いだわけ】 細川屋敷から逃れた婦人のなかには、 ガラシャの子・忠隆の正室で の娘・千世もいました。 千世は姉・ の住む 隣の宇喜多屋敷に逃れたとされています。 しかし、これに激怒した細川忠興は、 息子の忠隆に千世との離縁を命じ、 反発した忠隆を勘当・廃嫡してしまいました。 忠隆の子孫はのちに 細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、 明治期に細川姓へ復しています。 ガラシャの死後、 三男である細川忠利が興秋を差し置いて家督を相続、 不満を抱いた興秋が大坂の陣で 豊臣側に与する原因とも言われています。 【石田三成の誤算】 関ヶ原の戦いで、 この諸大名の妻子を人質に取る作戦は、 ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚き、 天守閣に集めることを、 むやみに拡大することはなかったそうです。 【海外で戯曲になる】 【音楽つき戯曲「強き女」】 ガラシャの改宗の様子は、 当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが 本国に報告していました。 そうした文献を通じて伝わった情報をもとに、 ガラシャの実話に近い内容のラテン語の戯曲 「強き女…またの名を、丹後王国の女王グラツィア」 が制作されることになったそうです。 この戯曲は 神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日 (7月26日)の祝いとして、 1698年7月31日に ウィーンのイエズス会教育施設において、 音楽つきの劇の形で初演されたとあります。 脚本は当時ハプスブルク家が信仰していた イエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが書き、 音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウトが作曲したそうです。 脚本を書いたアドルフは、 この戯曲の要約文書において、 物語の主人公は「丹後王国の女王グラツィア」 であると述べていたそうです。 さらに、アドルフが執筆に際して直接の典拠としたのは、 コルネリウス・ハザルト著 「教会の歴史-全世界に広まったカトリック信仰」 の独訳本の第1部第13章、 「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」 であったことをも明記していたそうです。 戯曲では、グラツィア(=ガラシャ)の死が 殉教として描かれているそうです。 夫である蒙昧かつ野蛮な君主の 悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、 最後は命を落として暴君を改心させたという、 キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きであったそうです。 この戯曲は オーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに 特に好まれたとされていました。 【ガラシャの人となり】 【1】 いったん事がある時は 甲冑をつけ馬に乗り敵に向かっても、 自分は男にさまで劣るまいと語ったとされています。 明智一族の血を引く女性はいざとなると、 凛々しくて勇ましい気質を受け継いでいるのかもしれません。 【2】 夫の忠興が家臣を手討ちにしてしまいました。 その刀の血をガラシャの小袖で拭っても動ずることなく、 そのまま数日間も着替えないでいました。 結局は細川忠興が詫びて着替えてもらったそうです。 【3】 細川忠興がある夜、彼女の部屋に入ってきて 「小夜ふけて入たる物は何やらん」 と戯れてうたいかけると、 即座に「ともしび消えて閨の星かげ」 と答えたとされています。 【4】 ガラシャ自筆の手紙は、 国立国会図書館(松本文書)に10通、 永青文庫に4通、 東京国立博物館に1通(細川忠興宛)、 熊本県立美術館(三宅家文書)に1通(三宅重利宛)、 小侍従の子孫である松本家に1通、 の計17点が確認されています。 それらを比べてみると、 書風に差があり、署名だけはガラシャ自筆で、 それ以外は右筆が書いた手紙が 混じっているとも推測されています。 宛先の大半は小侍従(こじじゅう)(女房名の一つ)で、 文面からも彼女に対するガラシャの 深い信頼が伺えるとのことです。 内容も豊富で、奥向のトップとして 夫である細川忠興に対する気遣いや、 使用人への扱い、 上方への贈答や節句の準備の指示などが 綴られているとのことです。 綴られた文面からも、 やはり父親譲りであることがうかがえます。

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