あおい輝彦 ジャニーズ。 アイドルグループの系譜「ジャニーズ」と「フォーリーブス」

初代ジャニーズのメンバーは誰?解散理由と現在はどうなってる?

あおい輝彦 ジャニーズ

あおいさんも小学生の頃からお父様に野球を教わっていたという。 「小学校の3年生ぐらいから父親にいろいろ教えてもらって、ずっと一緒にキャッチボールをしたりしていました」 -ジャニー(喜多川)さんとの出会いも野球だったとか、ジャニーさんと一緒に野球をされるようになったのは?- 「中学のはじめぐらい。 その当時、僕は初台に住んでいて、今の代々木公園はワシントンハイツ(アメリカ軍の兵舎・家族用居住宿舎などからなる軍用地)だったんです。 僕らはそこに入れない。 日本人は入っちゃいけなかったんですよ。 すばらしく整備された芝生でね。 ジャニーさんは少年野球チームを持っていて、監督だったんです。 それで、僕はいつも学校の帰りに代々木中学の仲間と明治神宮によく遊びに行っていて、明治神宮の隣がワシントンハイツだったから、いつも『野球をやってる、やってる、いいなあ』って金網の外から見ていたんですよ。 それがのちの『ジャニーズ』のメンバーです。 ジャニーさんも僕らと顔見知りになってきて、『野球やりたいの?』って聞くから、『はい』って言ったら、そのうちチームに入れてもらうようになって」 -野球がきっかけで交流が始まったということなのですね- 「そう、野球が縁ですよね。 ジャニーさんも野球が大好きだから。 ジャニーさんのお父さんも『金星スターズ』という野球チームのマネージャーをしていたこともありましたからね」 -ジャニーさんは昔からミュージカルをご覧になっていたのですか- 「好きだったんでしょう、それは。 ショービジネスにはもちろん通じていたし、大好きだったと思いますよ。 あまり詳しいことは知らないんだけど、ジャニーさんのお父さんが、美空ひばりさんのアメリカ公演の会場に東本願寺LA別院をあっせんしたこともあって、ジャニーさんが現地で設営を手伝ったそうですし、エリザベス・テイラーに会ったことがあるとか、そういう話は聞いていました」 -あおいさんがミュージカルをご覧になったのは?- 「野球の練習をしようとしていたら雨が降っちゃって、『練習ができないから映画でも見に行こう』ってなって、見たのが『ウエスト・サイド物語』だったんですよ。 それでみんな大感激して、もう虜(とりこ)になっちゃったんだね。 『野球よりカッコいい!』と。 それまで見たことがなかったから、衝撃ですよ。 それで、野球の練習がミュージカルの練習に変わっていって(笑)。 少年野球チーム『ジャニーズ』のメンバーは20人ぐらいいたんだけど、最終的に残った4人とも代々木中学校生。 吉永小百合さんが先輩にいるんですよ」 -ダンスや歌のレッスンはどのように?- 「ジャニーさんもメリー(喜多川)さんもそういう世界に通じていたから、ダンス、歌、演技の先生も呼んでくれてね。 東京都出身。 1962年、ジャニーズ事務所の創立グループ「ジャニーズ」のメンバーとして14歳で芸能界デビュー。 1967年、「ジャニーズ」解散。 『冬の旅』(TBS系)、『二人の世界』(TBS系)、『赤ひげ』(NHK)、『水戸黄門』(TBS系)、映画『犬神家の一族』、映画『二百三高地』など、ドラマ、映画に多数出演。 ソロ歌手としても活躍し、『あなただけを』がオリコン週間チャートで6週連続第1位を獲得。 ディナーショーでは得意のギター、ピアノの腕前も披露。 アニメ『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈の声優としても知られている。 あおいさんはまだ14歳。 早大野球部で活躍した後、新聞社やラジオ局の取締役をつとめたお父様は、あおいさんの芸能界入りに大反対だったという。 「父は僕が野球の練習に行っていると思っていたからね。 それで、あるとき、父がジャニーさんのところに怒鳴り込んで、『家の一人息子をどうしてくれるんだ』って。 ジャニーさんは僕の父親のことを知っていて『(お父さんも)学業をしっかりなさって、クラブ活動として野球に情熱を燃やしていたじゃありませんか。 それと同じだと考えてください。 クラブ活動だと思ってください。 人間修要の場にしますから、学業は絶対におろそかにはしません』って説得してくれて、できることになったんですよ」 -お父様はラジオ局の取締役もされていたそうですが、あおいさんを芸能界にということは考えてなかったのでしょうか?- 「かたい父でしたからね、すごく。 とんでもないと思ったでしょうね」 -デビューが決まったときはいかがでした?- 「僕らが『やろう、やろう』って言って、やったことだから。 だけど、全然プロになろうとか、芸能人になろうとか、そんなことは全然思ってないの。 ただ、『ウエスト・サイド物語』のようなことをやりたい。 素晴らしいミュージカルをやりたいって」 -当時はまだ日本ではミュージカルが認知されていなかったと思いますが- 「そう。 あの頃は男が踊るなんて、みんな知らなかったからね。 ラインダンスだとか、宝塚、OSK(日本歌劇団)とか、女性が踊るのはみんな知っていますけど、男が踊るのは知らないから、みんなびっくりしていましたよ(笑)。 当時は、男性歌手は東海林太郎さんのように、基本的に直立不動でしたからね。 当時の御三家、橋幸夫さんたちも直立不動じゃないですか。 ちょっとステップを踏む程度のグループがいたくらい。 それが、ビシッと『ウエスト・サイド物語』みたいにキメたもんだから、みんなビックリして『何だ?これ』って(笑)。 今はもう歌って踊るなんていうのは当たり前なんだけど、当時としては衝撃。 ジャニーさんが、僕たちがデビューしたときに、木の実ナナさんのバックコーラスとダンスで出したんですよ。 わざと、シルエットにしてね。 普通は新人でデビューっていうと、なんとか顔を出そうとするじゃない? それをわざとシルエットにして。 男が踊っていること自体、みんながびっくりなのに、わざと姿を出さないで、ひと月くらい」 -1カ月も顔を出さずに歌って踊って?- 「そう。 それでみんなの興味が最高に盛り上がったときに姿を現して『ハイ!ジャニーズです!』ってやったら、『ワーッ』てなって、もう熱狂的なファンが付いたんです」 -当時からジャニーさんの発想はすごかったのですね- 「すごい。 それは『日劇ウエスタンカーニバル』でも、タイトルはウエスタンなのに、『I Love Paris』 をやったりしてね(笑)。 だから、『何を考えてるんだ?』って、ずいぶんたたかれましたよ。 でも、ジャニーさんは、ジャニーズが1番カッコ良く見えるのは『I Love Paris』だって思ったら、ゴリ押ししちゃうんですよね。 たとえば紅白歌合戦に初出場のときも、『マック・ザ・ナイフ』(ジャズのスタンダードナンバー)をやったんですよ。 中村八大さんと永六輔さんのオリジナルの曲があるのにですよ。 どうしても『マック・ザ・ナイフ』をやるって(笑)。 『お正月をむかえるおめでたい日に、何がナイフだ』って、散々批判されたけど、やり通した」 -それでもやり通すところがすごいですね- 「そうなんです。 それを通しちゃう。 だから、シルエットにするのだって、プロデューサーも番組のディレクターも、みんな反対するわけじゃない? それでも『いいんだ、シルエットにしてくれ』って。 だから、そのセンスがね、みんながおよばない天才なんですよ」 -あおいさんは、デビューのときにシルエットだと聞いていかがでした?- 「何にも思わなかった。 ステージでは客席の3分の2が空席になるんですよ。 2階も3階もみんなドーッと前に来ちゃうから、前の子は押されて真っ青な顔になっちゃって、ステージに引き上げて救急車で運んだりね。 昔はあまり規制がなかったから。 それでジャニーさんは、僕たちが『こういう風にやりたい』っていうと、それは『ジャニーズ』にとってはいいアイデアでも、前と後ろにも出る歌手がいるわけだから、それを交渉に行くって言って、ある歌手の方に交渉に行ったんですよね。 それで、しばらくして楽屋に戻って来て、『OKだよ。 君たちが言った通りでOKだから、あの通りにやりな』って言ったんだけど、よく見たらネクタイがひん曲がってクチャクチャになってる。 あれはきっと胸ぐらをつかまれたんだと思う。 すぐに見てわかった。 どんな力にも屈しない強い心で僕たちを守ってくれるわけだから、信頼関係は深まりますよね」 -そういう方だから、多くのスターを誕生させて来られたのでしょうね- 「そうですよ。 本当にすごい人です」 -ジャニーズがすごい人気になったときには芸能界でやっていく決心をされていたのですか?- 「アイドルという言葉もなかった時代だからね。 それで僕たちには『ウエスト・サイド物語』のようなすばらしいミュージカルがやりたいという志があったわけですよ。 一生懸命歌も踊りも練習してね。 だけど、ステージに出て行ったら『ギャー!! 』って、誰も歌なんか聞いている人はいない。 当時はテープを投げるのがはやっていて、すごくたくさん投げ込まれ、一生懸命踊っても足に絡まってひっくり返っちゃうんですよ。 それで、キャーキャーキャーキャー言っている興奮のるつぼのなかで曲が終わって、楽屋に帰ってきて『俺たちは何をやってるんだ? これ。 全然思っていることと違う』って。 みんなの頭に『?』がついて…。 『僕たちがやりたかったのはこんなことじゃない。 とにかくいったん辞めて、ミュージカルの発祥地であるアメリカへ武者修行に行こう』って。 それで人気が絶頂のときに活動を一時辞めてアメリカに行っちゃったんですよ」 -すごい決断ですよね- 「そう。 ジャニーさんも『おー、いいよ』って(笑)。 そこがジャニーさんはすごいよね」 -ジャニーさんもアメリカに一緒に行かれたのですか- 「そう。 メリーさんもね。 『ジャニーズは6人』って言っていたんだから。 僕たち4人とジャニーさんとメリーさんと、6人がジャニーズだって言っていたの。 次回はアメリカ留学、幻の全米No. 1ヒット曲、「ジャニーズ」解散、俳優生活について紹介。 (津島令子).

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「ジャニーズ」名付け親 初代ジャニーズ・あおい輝彦だった 4年前に知らされる/芸能/デイリースポーツ online

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あおい輝彦 ジャニー喜多川さんに発掘され、時代のスターとなった元アイドルの面々も悲しみに暮れた。 芸能界入りを反対した父を説得したジャニーさんの言葉など大切な思い出を振り返り、「兄貴を亡くした気持ち」と声を落とした。 9日の夜、マネジャーから「ジャニーさんが亡くなられた」と知らされました。 中学3年の頃に出会いましたから兄貴が亡くなった気持ちです。 最後にお会いしたのは昨年8月、A.B.C-Zの舞台の製作発表。 いつも昔の話を聞かせてくれました。 2、3年前の帝国劇場の貴賓室で「ジャニーズって名付けたのはあおい君だよ。 名付け親なんだよ」といってくれて。 驚きました。 当時、米国籍のジャニーさんは代々木の在日米軍施設で、僕たちの野球チームの監督をしていました。 へたくそだったのでチームの名前は「ヘターズ」「エラーズ」とかふざけてて。 ただ、練習を頑張っていたら強くなってきまして。 僕が「かっこ悪いし、ジャニーさんが監督なんだし、ジャニーズにしましょうよ」っていって、「ジャニーズ」になったというのです。 「ヘターズだったら、事務所としても売れなかったよね」って笑っていました。

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ジャニー喜多川社長が生み出した数々の芸能手法と裏方精神|NEWSポストセブン

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超人気アイドルを多数抱える芸能事務所のトップにして、そのアイドルたちから尊敬されてやまないジャニー社長。 一体、どんな人物なのだろうか。 ジャニー社長の本名は喜多川擴(ひろむ)。 1931年、日本人の両親の間に、アメリカ・ロサンゼルスで生を受けた。 僧侶である父親は、ロスの一角、日本人街リトルトーキョーにある高野山米国別院の主務を務めていた。 ジャニー社長が2才の時に一家は帰国するが、戦後、ロスに再渡航。 1950年、ジャニー社長は父親がロスの寺院につくったステージに日本の芸能人を呼んで公演を行う際、そのサポートをすることで、ショービジネスの世界に足を踏み入れた。 その後、日本に戻ったジャニー社長は、アメリカ大使館に勤務する傍ら、少年野球チームを率い、そのチームのメンバーを芸能界デビューさせる。 それが、あおい輝彦(71才)らが所属した4人組「ジャニーズ」だった。 ジャニー社長は歌って踊れるグループにするために彼らをレッスンに通わせ、満を持して、1964年にデビューさせた。 ジャニーズ事務所はその2年前の1962年に創業されている。 1968年にはおりも政夫(65才)らが所属する4人組の「フォーリーブス」をデビューさせる。 フォーリーブスは、ジャニーズのバックダンサー出身者で、そのフォーリーブスのバックダンサーから郷ひろみ(63才)が誕生している。 「その頃には、スターの後ろで踊っていた少年を次のスターに抜擢するという仕組みを構築した。 今や、ジャニーズ事務所以外でも採用されている日本のエンターテインメントの構造は、ジャニーさんが築いてきたといっても過言ではない。 ジャニーさんがいなければ、日本のショービジネスは何十年も遅れていたはずです」(芸能関係者) その功績は「ギネス世界記録」にも認められ、2011年に「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」として、2012年には「チャート1位を獲得した歌手を最も多くプロデュースした人物」としても認定されている。

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