僕 は 何 年 経っ たら 君 に 会 いたく なっ て 歌詞。 中島みゆき「時代」③~亡くなった父の言葉が聴こえてくる「荒野より」と「もう一人の私」|TAP the SONG|TAP the POP

布施明の歌詞一覧リスト

僕 は 何 年 経っ たら 君 に 会 いたく なっ て 歌詞

子どもたちは、シャボン玉遊びが大好きです。 シャボン玉は、虹色にきらきら輝きながら、高く飛んで行くものもあれば、すぐにこわれてしまうものもありました。 そんな時にこの歌を歌いました。 そこには、のどかなひと時がありました。 【大きな口で、気持ちよく歌う】 一行目「SHABON-DAMA,tonda. 」は、母音が「ア」「オ」の繰り返しで、二行目「YANE made tonda. 」は、「ア」「エ」の繰り返しです。 圧倒的に「A」音が多いという特徴があります。 ですから、子どもたちが大きな口をあけて気持ちよく歌えるのです。 【亡き児への鎮魂歌か】 ところが、ある時NHKテレビの音楽番組で、作詞者の野口雨情の娘の死と『シャボン玉』の歌を結びつけ、「亡児への鎮魂歌である」という解釈が歌と共に字幕スーパーで全国に流れました。 すると、それまで楽しく歌っていた『シャボン玉』の歌は一変し、子どもの死と結びついた暗く悲しい歌となりました。 確かに歌詞に「生れて すぐに こはれて消えた」という言葉があります。 その時の愛児に対する雨情の気持ちが、この詩に込められているといわれます。 この記載は、長い間いろいろな出版物で紹介されました。 しかし、間違いでした。 雨情の四女の恒子が生まれたのは大正十年十一月十七日で、亡くなったのが大正十三年九月二十三日 合田道人著『童謡の謎』祥伝社 ですから、長田氏は疫痢で急死した「愛児」として恒子を念頭に置いていたと思われます。 ところが、『シャボン玉』の詩が発表されたのは大正十一年十一月号で、このとき恒子は存命していましたから、亡くなった愛児が恒子のはずはありません。 この記載も、長い間いろいろな出版物で紹介されました。 大正九年に亡くなった親戚の男の子とは、誰のことでしょうか。 はっきりわかっていません。 注目したいのは、いずれの著者も共通して子供は「大正九年に亡くなっている」といっている事です。 一体どうなっているのでしょう。 私を含めて一般の人は迷うばかりです。 それで、野口雨情記念館に問い合わせました。 すると、恒子の前に雨情は最初の子どもを亡くしていました。 「野口雨情記念館」の清水富光氏からの手紙によると次のようです。 「明治四十年、雨情は最初の妻・ひろ、長男・雅夫を連れて北海道に渡ります。 札幌には、七月から九月まで。 十月より小樽に移住します。 北海道小樽新聞社勤務、記者として石川啄木らと勤めますが、一カ月で退社します。 明治四十一年四月まで小樽にいました。 それには訳がありました。 明治四十一年三月十五日に妻・ひろが長女・みどりを出産しますが、三月二十三日には死亡しているためです。 その後、再び札幌に出ますが、九月には妻子を故郷に帰らせ、雨情は室蘭に去ります。 さらに旭川に移住し、明治四十二年十一月に郷里に帰っています。 雨情の略歴や残した言葉の中には、いろいろ言われているような事は、一切触れておりません」。 どうやら亡くなった娘には関係なく詩が書かれたようです。 しかし、みどりのエピソードを強調する研究者は多い。 また、『シャボン玉』に込められた鎮魂の思いは、人生をまっとうできずに死んで行く時代の子どもたちだという解釈もあります。 昔は、どこの家も貧しく、医療も今のように充実していませんでした。 多数の幼い子どもが亡くなるような厳しい風が吹かないようにとの祈りが込められた詩という解釈です。 発表の雑誌が大日本仏教コドモ会が発行していた児童雑誌『金の塔』であることが、この解釈を裏付けているようです。 【詩と曲の発表は同時か】 では、詩と曲について詳しく見てみましょう。 本物を見たいものです。 この調査のために、『雨情会々報』復刻版 金の星社 を購入しました。 昭和五十五年(1980年)十月二十五日発行の第三十一号では、宮崎の新発見にはふれられていませんでした。 以下は調査済み図書館一覧。 私、池田小百合は復刻版『金の船』を持っていますが、掲載されていませんでした。 この記述は、多くの出版物で使われてしまいました。 そもそも、何月号か書いてないのは変です。 過去の出版物に、「子どもが亡くなったのが大正九年」となっているのは、この「大正九年、雑誌『金の船』に発表された」の記述を裏付けるための作り話だったようです。 【「大正九年」は、どこに書いてあるのか】 では、「大正九年」はどこから出てきたのでしょうか。 この詩は圧倒的な支持を得て多くの出版物で使われています。 タイトルは平仮名で「しゃぼん玉」です。 「しゃぼん玉、とんだ。 ・・・」のように、句読点があります。 一連目は四行、二連目も四行、三連は二行です。 一連目と二連目が四行なのは疑問です。 【詩と曲は同時ではない】 中山晋平記念館の見解は、次のようです。 晋平は『金の塔』大正十一年十一月号を見て作曲して、楽譜を大正十二年一月発行の晋平作品集『童謠小曲』第三集で発表し、次第に広まって行った。 大正十一年から昭和九年の間に、十七集発行されています。 大正十二年一月二十五日発行の中山晋平曲『童謠小曲』第三集 山野楽器店 に「シャボン玉」のタイトルで掲載しました。 第三集の表紙絵は加藤まさをで、男の子と女の子がシャボン玉遊びをしている絵です。 男の子も、白いエプロンをしているのが印象的です。 昔の子どもたちは、楽しくシャボン玉遊びをした後は、決まって服が石鹸水でグチャグチャになり、叱られたものでした。 表紙絵は右を参照。 1 童謠小曲 2 」の 2 は間違い。 365ページの出版楽譜一覧では「童謠小曲 山野楽器 第3集 大12. 1 シャボン玉 野口雨情」となっていて、第3集が正しい。 「大12. 1 童謠小曲 2 」の間違った記載の方は、他の出版物で次々使われてしまいました。 私を含めて、一般の人は不思議に思い、中山晋平記念館に問い合わせる原因となりました。 この本の記載が違っていたため、次々出版される本が違っていたのだとわかりました。 なお、「童謠小曲 山野楽器 第3集 大12. 1 」には、野口雨情の「黄金むし」も掲載されています。 雑誌『金の塔』大正十一年十一月号に発表された詩の原題が平仮名で「しゃぼん玉」なら、なぜ雨情の『新資料』や『パンフレット』がカタカナで「シャボン玉」となっているのでしょうか? これはおかしい。 外来語はカタカナで表記するのが一般的です。 「石鹸玉」でなく「シャボン玉」にしたのが成功しています。 シャボンすなわち石鹸は織田信長がいたころ、おそらく天正年間にポルトガル人が持ち込み、以来一部の人に使われるようになり、江戸時代にかけてシャボンの名が使われましたが、明治になると「石鹸」を一般の人が使うようになったようです。 幕末のころにはシャボン玉を売る商人がいたとのことです。 戦後の二年生の音楽教科書では、教科書会社により『シャボンだま』だったり、『しゃぼんだま』となっていたりします。 カタカナは二年生になってから学習することになっているからです。 児童文学者の間では、このような当たり前のルールがなかなか徹底しません。 【 春秋社 版の検証】 小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻』 春秋社、昭和五年一月十五日発行)の歌詞及び解説のページを見て驚きました。 タイトルは「シャボン玉」で、一連は、「シャボン玉飛んだ/シャボン玉飛んだ」だったからです。 現在歌われている歌詞は「シャボン玉 飛んだ 屋根まで飛んだ」です。 楽譜の歌詞づけはそうなっていますから、誤植、印刷ミスでしょうか。 掲載楽譜は変ホ長調です。 【『童謠小曲 第三集』の「シャボン玉」は、これだ】 中山晋平 曲『童謠小曲 第三集』 山野楽器店 大正十二年一月二十五日発行。 ・タイトルは「シャボン玉」です。 ・歌詞には句読点がない。 ・二行五連からなる、ひとまとまりの作品です。 ・変ホ長調、四分の二拍子。 ・曲をつける時、一連と二連、三連と四連を対として五連で結び一曲として仕上げました。 初めの八小節の繰り返し AA と、コーダ B の四小節からなっています AABの旋律形。 それに前奏四小節と後奏四小節が付いています。 <コーダについて> コーダ=曲の終結部。 終結を完全にするための部分で、結尾ともいいます。 この曲では、最後にコーダが付けられています。 具体的には、「うまれてすぐに こわれてきえ た」でいったん終っていますが、完全に終結させるために「 かぜかぜふくな しゃぼんだまとばそ」があります。 つまり、歌詞の最後の二行をコーダにし、これで終わりですよと念をおしています。 ここが曲の山場なので強く歌います。 コーダを付けることにより広がりを持った大きな曲になりました。 コーダの威力は絶大です。 【晋平のアイディア】 「かぜかぜ ふくな」の所は、ピアノの伴奏がありません。 珍しいことですが、なぜでしょうか。 それは歌う人にテンポや表情などの表現を任せるために音を書かなかったのです。 さらりと歌ってもよいし、祈るような感情を込めて歌ってもよいのです。 晋平ならではのハイカラなアイディアです。 <おや? > 中山晋平 曲『童謠小曲 第三集』掲載の楽譜をよく見ると、「しゃぼんだま とばそ」の「しゃ ぼん」の音符の配列がおかしい。 「八分音符 八分音符」になっています。 しかも間があいている。 これは明らかに誤植です。 なぜなら先行する「かぜかぜ ふくな」と、次の「しゃぼんだま とばそ」のリズムは同じで、「タッカタタ タタタ八分休符」と考えたからです。 これが、オリジナルだとしたら非常に歌いにくい。 「タッカ」のリズムだとする解釈は不自然です。 しかし現在、全ての出版楽譜は、小松耕輔編『世界音楽全集11日本童謠曲集』 春秋社 昭和五年一月十五日発行にそろえて「タッカ」のリズムになっています。 今まで、だれも不思議に思わなかったのでしょうか? 歌ってみればすぐわかることです。 これにそろえて歌い継がれています。 三回出てくる「しゃぼんだま」は、三回とも右手の伴奏通りに「八分音符と十六分音符二つ」のリズムで歌い継がれています。 三回目だけ「タッカ」のリズムにし、さらに伴奏と歌を違うリズムに作曲したとは考えられません。 単純に、ここは伴奏と同じ「ド ドレ」、「八分音符と十六分音符二つ」と解釈するのが妥当でしょう。 メロディーは、最後なので「ドドレミソ ミレド」と、まとめました。 現在、歌い継がれている歌い方が正しい。 【教科書の扱い】 原譜は変ホ長調です。 最高音が二点変ホですから、歌うには高すぎます。 現在出版されている楽譜は、二長調またはハ長調に移調したものもあります。 しかし、いずれの調でも歌い初めの大切な音が低すぎます。 この出だしを「シャボン玉 飛んだ」 ドドドレ|ミソソ と歌う人があります。 最初は間違って歌っているのかと思いましたが、多数の人が違和感なく歌っているのを聞き、何か理由があるのではないかと思い調べてみることにしました。 昭和四十二年四月十日文部省検定済『新訂標準 音楽2 教師用指導書』(教育出版)では、ハ長調の楽譜が掲載してあり、教材解説には、次のような興味深いことが書いてあります。 「この曲は原作とちがう所が2か所ある。 」 (1)出だしが(ソ)だと音域がひろすぎて子どもたちには適さない。 しかし非常に喜んで歌う歌曲なので、出だしを ド に直して出してある。 文部省が教科書に掲載する時、直したのです。 (2)最後の「シャボン玉 飛ばそ」の「シャボン」の部分、歌譜はタッカ 付点八分音符と十六分音符 のリズムだが、伴奏譜が 八分音符と十六分音符二つ のリズムになっていて、子どもたちも、それを主旋律のように歌っているので、伴奏譜にそろえて直してある。 一方伴奏譜に歌詞をあてはめるとスムーズに歌えるから、この部分も文部省が教科書に掲載する時、直したのです。 文部省は、このように移調したり、音やリズムを変えて、教科書に掲載し、子どもたちに歌わせたことがありました。 したがって、他の曲でも、さまざまな楽譜が出版され、原曲と違う歌われ方をされてしまっています。 【歌ってみましょう】 それでは、文部省が変えて掲載した 1 2 で歌ってみましょう。 いかがでしょうか。 (1)まず、最初の「しゃぼんだま|とんだ」を ドドドレ|ミソソ と歌ってみましょう。 この方が、楽な音域と違和感のないリズムで歌えます。 小さい子どもには特に歌いやすい。 しかし、これは定着せず、晋平が書いた楽譜の通りに ソドドドレ|ミソソ で歌い継がれています。 2 次に、最後の「しゃぼんだま|とばそ」を伴奏と同じリズムで歌ってみましょう。 これは、 すでに私たちがいつも歌っている歌い方です。 三回出てくる「シャボン」のリズムは同じ方が歌いやすいのです。 伴奏に合わせて歌う方が定着しました。 耳から聞き覚え、歌いやすい歌い方で歌い継がれるのが童謡本来の姿だからです。 それでは元のものが失われ、わからなくなってしまいますから、オリジナルなものを絶対とし、それを残そうとする意見もあります。 しかし、童謡は、歌曲や合唱曲、オペラと違い、楽譜を見て歌うわけではないので、歌いにくいものや、覚えられないものは、結局歌われなくなり、忘れられてしまうのです。 このような理由で、どれほど多くの童謡が消えてしまったことでしょう。 名曲童謡とは、時代を越えて歌い継がれ、歌いやすい姿になって愛唱され続けるものなのだと思います。 【『NHK うたのえほん』の扱い】 『NHK うたのえほん 3』 日本放送出版協会 1965年7月1日発行には、以下の楽譜「しゃぼんだま」が掲載されている。 昭和四十年 1965年 代には、最初の「しゃぼんだま|とんだ」を ドドドレ|ミソソ と歌わせていたことがわかります。 この方が、小さい子どもには歌いやすい。 しかし、二小節だけ同じ曲は他にもたくさんあります。 問題にするようなことではありません。 昭和十一年に平山美代子と中山梶子の歌唱でレコードがビクターから発売され ました。 レコーディングの時、続きの二番としての詩も作られましたが、今では 歌われる事はありません。 シャボン玉 飛んだ 屋根より高く ふうわりふわり 続いて飛んだ シャボン玉いいな お空にあがる あがっていって 帰ってこない ふうわりふわり しゃぼん玉飛んだ 【子どもにも大人にも愛唱される理由】 試しにスローテンポで歌ってみてください。 もの哀しい人生の愁いの歌になります。 讃美歌というより、せつない日本民謡風に曲をまとめた晋平ならではの作風のせいといえます。 つまり、この歌には、二つの顔があるのです。 子どもが早いテンポで歌うと楽しくうれしい歌となりますが、大人がゆっくり歌うと、もの哀しい愁いの歌になるのです。 どのように歌うかは、歌う人にゆだねられます。 これが、『シャボン玉』が子どもにも大人にも愛唱される理由の一つであると思います。 私の童謡の会では、楽しいシャボン玉飛ばしの歌として元気に歌っています。 「お願い、風よ吹かないで、みんなで楽しくシャボン玉遊びをするのだから」という解釈です。 すると、「先生ご存知ですか。 この歌は子供が死んだ歌だそうですね。 歌うと悲しくて涙が出ます」などと言う人が必ず現れます。 人により解釈は様々ですが、これからも愛唱されて行くことを願っています。 子どもたちが外でシャボン玉遊びをしなくなっていますから、歌も消えてしまうのではないかと案じられます。 あなたは、最近『シャボン玉』を歌いましたか? 台座には、『シャボン玉』の楽譜が埋め込まれています。 (右の写真参照) 茨城県北茨城市磯原町磯原の「野口雨情記念館」の前庭正面には雨情がペンとノートを持った銅像があり、その右側に女の子、左側に男の子がシャボン玉遊びをしている一対の像があります。 (左の写真参照)。 また、常磐自動車道中郷サービスエリアの詩碑公園にも童謡碑とシャボン玉遊びをする子どもの像があります。 これから研究する人へ。 『金の星童謠曲譜第九輯 あの町この町』中山晋平曲 野口雨情詩 金の星社 大正十四年四月発行には「シャボン玉」は掲載されていません。 調査済み。 楽譜のように滑らかに歌う人はいない。 みんな弾んだ<ピョンコ節>で歌う。 なぜでしょう。 この不思議な歌について調べてみました。 【発表誌】 雑誌『コドモノクニ』 東京社 大正十三年 1924年)一月号に掲載。 岡本歸一挿絵。 詩のタイトルの下に 曲譜附 と書いてある。 詩と曲は同時発表。 (大阪府立中央図書館国際児童文学館所蔵、複写可)。 <初出楽譜は「おそらに」> 『コドモノクニ』大正十三年一月号に野口雨情が発表した詩の第五連は、「お空の夕べの」です。 しかし、 中山晋平が発表した楽譜は、「 おそらに ゆふべの」と変えてあります。 初出の詩は「お空の」で、初出の楽譜は「おそらに」となっている。 【天才二人の童謡】 <作詞は野口雨情> ・子供が登場しないのに子供を歌った童謡です。 女の子でしょうか。 男の子でしょうか。 ・・・雨情は、『証城寺の狸囃子』でも、「狸」という言葉を一言も出さずに成功しています。 ・ 「あの町この町」「今きたこの道」「お家」も、どこの町でしょうか。 どこへ行く道でしょうか。 お家はどこにあるのか。 ・・・この頃の雨情は、地方への童謡・民謡の普及運動に情熱を傾けていました。 家庭には留まらず、いつも「あの町この町」を旅することの多い生活でした。 『あの町この町』は、特定の町ではなく歌う人の思い描く町です。 ・帰ろうとしているはずなのに、家がだんだん遠くなっていくという部分が秀逸です。 <作曲は中山晋平> ・繰り返される「ひがくれる ひがくれる」「かえりゃんせ かえりゃんせ」は、民謡の匂いを生かした、この歌の重要な部分です。 日本人は、このような歌が大好き。 二回目は少し弱く歌うと、こだまのように余韻を残す響きとなります。 【時代的背景】 関東大震災 大正十二年九月一日 の翌年の発表。 歌にも当時の様子が反映されている。 雑誌『コドモノクニ』を発行していた 東京社 は、焼跡にバラックを建築した。 【挿絵の力】 岡本歸一が描いた挿絵が強烈な印象をあたえます。 ヒットには、この一枚の挿絵の力も大きい。 日の丸の旗を立てた家々に灯がともり、正月でにぎわう町を羽子板を小脇にはさんだ可愛い女の子が寂しく歩いています。 一月号用なのでこのような挿絵になったのでしょう。 ・・・暮れなずむ町の風景、日本人は、このような絵が大好き。 「ラララソ」が正しい。 この曲の伴奏右手は、全てメロディーラインにそって書かれているのに、ここだけ違っている。 ・三番は、「 おそらに ゆふべの」となっている。 今歌われているように直した。 【注目すべき音楽会あり】 大正十三年四月十二日 土曜日 午後一時半から、丸ノ内報知講堂に於て、「子供芸術大会」が催された。 入場料は壱円。 プログラムには、〔第一部 七、童謠のお稽古 中山晋平 1兎のダンス「コドモノクニ」五月号掲載 2あの町この町「コドモノクニ」一月号掲載〕。 音楽会では、佐藤千夜子の独唱を聴くだけでなく、雑誌、歌、踊りの宣伝が行われ、プログラムから中山晋平が集まった人たちに『兎のダンス』と『あの町この町』の歌い方を教えたことがわかります。 最後に会場全員で歌うこともしていたことがわかります。 こうして子供たちが覚えた『あの町この町』は、口から口へ伝わり、全国で歌われるようになりました。 楽譜が読めない人がほとんどの時代のことです。 ここで注目したいのは、『兎のダンス』の次に『あの町この町』を お稽古 しているところです。 『あの町この町』も、『兎のダンス』と同じように軽やかに弾んだ歌い方で覚えて帰ったと思われます。 」と書いてありますが、『あの町この町』にとっては、弾んだ歌い方の流行につながる重大な音楽会でした。 日本には昔から、<ピョンコ節>という軽やかに弾みながら歌う歌い方があり、『あの町この町』も、この歌の持つ雰囲気から、『兎のダンス』や『うさぎとかめ』のように、歌っているうちに弾みをつけて歌われていったのでしょう。 今日、私たちも聞き覚えた弾んだ歌い方で歌っています。 【ピョンコ節について】 弾みをつけて歌う歌い方は、日本独特の<ピョンコ節>といわれているものです。 ピョンコピョンコと跳ねるようなリズムでできているので明治時代には<ピョンコ節>といわれていました。 元気が出て楽しくなるリズムです。 古くは「あんたがたどこさ」「ずいずいずっころばし」のように、日本のわらべ歌や民謡に多いリズムです。 適当にピョンコピョンコと歌えばいいのです。 日本人は、<ピョンコ節>の歌が大好き。 この歌を歌う時、私たちは何の問題もなく、軽やかに弾みながら歌います。 楽譜はどのように書いてあったのでしょう。 詳しく見ましょう。 【『金の星童謠曲譜第九輯 あの町この町』に収録】 『金の星童謠曲譜第九輯 あの町この町』中山晋平曲・野口雨情詩 金の星社、大正十四年(1925年)四月二十五日発行)に収録。 野口雨情記念館、中山晋平記念館所蔵。 国立音楽大学付属図書館所蔵複写可 <詩も「お空に」に改訂> 初出の『コドモノクニ』大正十三年一月号の野口雨情の詩は、「日がくれる 日がくれる」「お空の夕の」でしたが、 『金の星童謠曲譜第九輯 あの町この町』に収録の時、「お空 に夕の」に変えました。 句読点なし。 これで、詩も楽譜と同じ「お空に」になりました。 十六分音符であるはずの所が八分音符になっている。 「ラララソ」が正しい。 第七集には「兎のダンス」も収録されている。 『童謠小曲』は一冊五十錢。 楽譜は<ピョンコ節>で歌うようには書いてありません。 ・前奏三小節目は十六分音符に訂正してあります。 これが正しい。 ・五小節目の伴奏右手部分の「ラドラソ」の誤植は、間違ったままです。 「ラララソ」が正しい。 この情報は『季刊どうよう』19号掲載、河村順子が書いた「昭和レコード童謡のあゆみ」による。 ・海沼実著『童謡 心に残る歌とその時代』 日本放送出版協会 には、「昭和三年 一九二八 年に初録音を行ったとされる平井英子の歌には、付点など付いておらず、 伴奏を担当している中山晋平も、弾みのない滑らかな伴奏をしています」と書いてあります。 このレコードは、ビクター50503-Aです。 歌は平井英子、伴奏は中山晋平で聴 く事ができ、弾みのない演奏です。 裏は「てるてる坊主」で歌は平井英子、伴奏は中山晋平。 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所蔵。 北島さんによると「平井英子は1918年1月13日生まれですから、10歳の録音ということに なります。 平井英子のレコードは33枚集まりました」。 歌は平井英子、伴奏は日本ビクターアンサンブル。 ・・・日本ビクター の8インチ盤で、Jナンバー30000番台のものは『兒童レコード』で250枚ほど出された。 そのJ-30001-Aが平井英子の「あの町この町」 裏は平山美代子の「南京ことば」 です。 」と教えていただきました。 ・ビクターレコード番号53013-A/歌は平井英子、伴奏は日本ビクター管弦楽団のレコードは小田原市在住のMさん所蔵。 このレコードは昭和九年にオーケストラ伴奏で再録音されたもののようです。 平井英子の歌は、付点がついていません。 伴奏の管弦楽団も滑らかな演奏です。 模範演奏も<ピョンコ節>ではありません。 【平井英子について】 ・大正七年 1918年 1月13日生まれ。 ・大正十五年 1926年 ニッポノホン16772「露地の細道」「てるてる坊主」は、林秀子の名前で録音。 ・昭和三年 1928年 頃、両親が離婚。 林姓から平井姓になった。 電気録音の開始とともに中山晋平に見出されてビクターに録音。 ・昭和九年(1934年)引退。 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんに教えていただきました。 【「はずみをつけて」の指定は、いつからか】 『あの町この町』は、みんなが軽やかに弾んだ<ピョンコ節>で歌い広まりました。 作曲者の中山晋平はそれに気がつき、<ピョンコ節>で歌うように「はずみをつけて」の指定をしました。 1980(昭和五十五)年二月発行の中山卯郎・編著「中山晋平作曲目録. 年譜」には、<作曲者が生前出版を計画した「中山晋平童謠名曲集」 昭和28. 6,全音楽譜出版社 では「はずみをつけて」という指定をつけた>と書いてあります。 「中山晋平記念館」によると、<楽譜に「はずみをつけて」と表記をして出版されたものは、「中山晋平童謠名曲集」 昭和28. ・前奏三小節目の誤植音符 十六分音符である所が八分音符になっていた が訂正してあります。 ・ 「このみち」「かえりゃんせ」「かえりゃんせ」の三ヶ所、伴奏右手一拍目に八分休符を入れて 弾むようにした。 中山晋平は、楽譜を手直ししている内に、昭和二十七年 1952年 十二月三十日、国立熱海病院で膵臓炎のため六十五歳で亡くなってしまった。 <『中山晋平童謠名曲集』の まえがき> 中山先生の童謠曲集を出版する計画は、先生生前中からの話題であり、一部は選曲にも着手して頂いて進行途上にあったのでありますが、旧年末、先生突然の訃報に接し、限りない悲しみと共に先生自身の選曲になる曲集編纂と言う計画は、全くかなわぬ夢となったのであります。 その後、先生の偉業を偲ぶ「中山晋平記念会」が誕生し記念として、「中山晋平全集」の刊行が企画され、全音編集部としても欣然この計画の実現に協力することになりました。 ・・・童謡曲集だけでも早く欲しいという声も各方面に強く、その要望に応えようとして編集したのがこの曲集です。 ぜひ楽譜が見たい。 研究心がそそられます。 早速、中山晋平記念館に楽譜の複写を申し込みました。 すると、以下の楽譜が送られて来ました。 メロディーラインにそった訂正になっています。 晋平は、「はずみおつけて」と書かなくても、伴奏で弾むようにすることができると考えたのでしょう。 作曲家・中山晋平の苦労の一端がうかがえます。 誤植が全て訂正され、はずむリズムが強調してあるこの楽譜が一番レベルが高い。 以上でわかるように実際には三種類の楽譜が出版されていた。 もっと別の楽譜もありそうですが、中山晋平記念館から「これ以上は記念館としましても何かご質問等ございましたら簡単で結構ですので企画書を書いて送っていただきたいと思います。 大切なものですので、あまり一般の方にはお出しできないものもあります」 2008年9月6日。 との連絡があり、迷惑をかけているようなので、ここで研究を終わりにすることにしました。 『中山晋平童謠集』第1集には、「あの町この町」 野口雨情 詩 「手のなる方へ」 野口雨情 詩 「肩たたき」 西條八十 詩 「十五夜さん」 三苫やすし 詩 「となりの小母さん」 西條八十 詩 「おみやげ三つ」 西條八十 詩 「遠めがね」 武井武雄 詩 が掲載されている。 宮尾しげを・繪、清水和歌・振付。 しかし、歌われ出すと、みんなが弾んだ<ピョンコ節>で歌いました。 晋平は悩んだ末、伴奏右手部分四ヶ所に八分休符を入れ、昭和二十四年にその楽譜を出版しました。 晋平は「はずみをつけて」を書き加えることにより、「みなさん弾んだ<ピョンコ節>で歌ってください。 そう歌っていいですよ」と言いたかったのでしょう。 ところが、楽譜の出版を前に、昭和二十七年十二月三十日に晋平は亡くなってしまいました。 亡くなった後出版された昭和二十八年版は、晋平が昭和二十四年版で訂正したにもかかわらず、五小節目の伴奏右手部分「ラドラソ」の誤植が訂正されず、そのまま出版されてしまいました。 全音編集部の責任です。 現在出版されている全ての楽譜は、誤植の入った昭和二十八年版のままなので、訂正してほしいと思います。 誤植楽譜 昭和24年版 改訂楽譜 【謎の昭和13年版の楽譜】 藍川由美著『これでいいのか、にっぽんのうた』 文春新書 平成十年発行には、『中山晋平新作童謠作曲集』 昭和13年9月 の序文が紹介してあります。 「この作曲者の言葉を目にした者だけが、たとえば<あの町この町>や<キューピーピーちゃん>の8分音符の羅列が、付点のリズムでもスウィングでもない「ピョンコ節」を指していたことを知る・・・」と。 この本で紹介している『中山晋平新作童謠作曲集』 昭和13年9月 を探しましたが、「中山晋平記念館」他、どの図書館にもありません。 重要な序文を目にする事ができません。 出版社がわからないのでさがすのは絶望的です。 「ご質問の昭和13年の作曲集はこちらにはありません」 「中山晋平記念館」からの回答2008年9月6日。 2017年4月12日、野口秀夫さんから「Googleで検索しました」というメールがとどきました。 お知らせ、ありがとうございました。 『国立国会図書館デジタルコレクション 中山晋平 新作童謡 第一編』で見ることができます。 画像データによると、表紙が3通りあります(左から順になっています)。 奥付には書名が書かれていません。 亡くなったのは数えで六十三歳。 満年齢では六十二歳 碑文は六十二歳。 詩碑は、昭和三十三年 1958年 四月二十七日建立。 この美しい見事な字は、権藤圓立書です。 左半分は説明文、最後に権藤圓立書と書いてある。 左半分の説明文は次のようです。 雨情愛用の筆と硯が納められた。 碑詩は宇都宮市街を稍離れた下野の自然豊かな羽黒山麓の地にふさわしい「あの町この町日が暮れた」が選ばれ、権藤円立氏の筆になった。 <現在の雨情旧居と詩碑と筆塚> ・旧居は、鹿沼街道の拡幅で向きを変えたが、所有者の稲毛家で保存され、有形文化財指定 平成十七年十一月十日付 として登録されている。 ・詩碑 権藤圓立書 は、敷地が二度に渡る鹿沼街道の拡幅で買収され、狭い三角地になった。 ・旧居の前庭には、宇都宮雨情会によって建立された筆塚(佐藤和三郎書)があったが、道路拡幅のために移転後の旧居脇に移動して保存されている。 昭和三十五年十月に発足した宇都宮雨情会は、今の活動は停滞している。 註 筆塚「詩人野口雨情 ここにて眠る」の左下に、宇都宮市長佐藤和三郎書と書いてある。 以上は 『詩人・野口雨情 ここにて眠る』宇都宮市明保地区明るいまちづくり協議会 平成二十八年 二〇一六年 一月 著者小島延介 による。 【野口雨情の略歴】 <生誕から最初の結婚・離婚まで> ・明治十五年 1882年 五月二十九日、茨城県多賀郡北中郷村大字磯原一〇三番地 現・北茨城市磯原町 に、父量平、母てるの長男として生まれる。 本名は英吉。 ・明治三十四年四月、東京専門学校高等予科文学科 早稲田大学の前身 に入学。 ・明治三十七年 満二十二歳 一月に、父が村長在籍中に死亡したため、故郷磯原に帰り、家督を継承するとともに、栃木県塩谷郡喜連川町 現・さくら市 の高塩家の娘ヒロ 明治十五年五月十五日生 と婚約。 ・明治三十八年 二十三歳 ヒロと結婚。 ・明治三十九年 二十四歳 長男雅夫誕生。 六月に日露戦争の勝利により樺太の南半分が日本領になったため、七月報知新聞樺太通信員として樺太に赴き、十月に上京する。 ・明治四十年 二十五歳 函館市で新聞記者として二年余流転。 妻ヒロも身重な体の上に、生れたばかりの長男雅夫を背負って雨情に付いて行く。 函館で焼け出され、札幌に居を移して石川啄木とともに小樽の小樽日報社の創業に加わって三面記事を担当するが、主幹と対立して小樽日報社を去る。 ・明治四十一年 二十六歳 小樽で長女みどり出生するが、八日後に死去。 この年、北海道新聞社など道内の新聞社勤務を転々とする。 ・明治四十二年十一月 北海道を離れ、帰郷後上京。 ・明治四十四年 二十九歳 東京有楽社に入社、『グラフィック』の編集に携わる。 六月に郷里から妻子を呼び、続いて母てるを引き取る。 八月皇太子殿下 後の大正天皇 が北海道に巡啓された際、グラフィックの報道記者として一団に加わり、北海道へ渡る。 九月母てる危篤の報に接して帰京したが、臨終に間に合わず。 十月郷里に引き揚げ、家業の植林事業に携わる。 ・大正三年 三十二歳 郷里で消防団長、磯原漁業組合長を務め、その後、入山採炭株式会社の事務員となって福島県湯本温泉 現・いわき市 の入山鉱業所へ通う。 そのころ芸者置屋の女将・明村まちに世話になる。 ・大正四年 三十三歳 五月十日妻と協議離婚届出。 ヒロは磯原の家へ二人の子 雅夫と美晴子 を置いて喜連川に帰る。 六月、二児を連れ、福島県富岡町の旅館中屋に滞在して開拓事業に携わったあと、北海道に赴く。 ・大正五年一月 ヒロ除籍。 ・大正六年 三十五歳 十月に「長子雅夫に告ぐ」一巻を手渡して家出、七月、ヒロは喜連川の実家に帰る。 事実上の離婚。 <再婚> ・大正七年 三十六歳 十月、明村まちと別れて湯本を去り、単身水戸に出て旅館兼下宿屋「対紅館」の娘で二十歳年下の中里家の 長女つる 明治三十五年十二月十二日生 と結婚、水戸市に住んで文学生活を始める。 ・大正九年 三十八歳 『金の船』の童謡欄の選者となる。 六月に上京して東京童謡会を結成。 ヒロが子供を養育するため磯原の野口家に戻り、雅夫の母として入籍する。 「」発表。 発表当時のタイトルは「十五夜お月」でした。 ・大正十年 三十九歳 「船頭小唄」を中山晋平作曲で発表。 「」発表。 十二月、「」「」を発表。 評論『童謡作法問答』や長編童話『愛の歌』を出版。 この年、民謡、童謡普及の講演旅行が多くなる。 ・大正十一年 四十歳 「」「」などを発表。 童謡、民謡の普及を目的として、権藤圓立らと結成した「楽浪園」に加わる。 註 権藤圓立は、「たなばたさま」の作詞者権藤花代の夫で、歌碑「あの町この町」は権藤圓立の筆になる。 <童心居> ・大正十三年 四十二歳 北多摩郡武蔵野村 現・武蔵野市 吉祥寺に転居。 「」「」を発表。 雨情は巣鴨から移り住んだ際に書斎を建て、応接室、安息室としても利用した。 優れた童謡、民謡がここで生まれている。 門に「童心居」と自書し、その脇に「人生は随筆である」と小書して掛けておいた。 その心は「一貫した長編でなく、随筆のごとく端的なものであると思う。 端的であるから、予めの結果を定めようとしても愚かなことである。 そう考えたとき安心もできるのである」。 ・大正十四年 四十三歳 「」「 証城寺の狸囃子 」中山晋平が改作して作曲した歌詞と楽譜が発表された。 ・大正十五年・昭和元年 四十五歳 十一月「野口廣子」の名で両親の野口量平、てる夫妻の墓碑建立。 刻字は雨情。 <旅人> 満洲 現・中国東北地方 各地に講演旅行する。 「私は旅が好きなのではない。 東京におれば苦痛なのである。 苦痛を逃れるために、旅の安息所へ出かけるのである。 」 野口雨情の言葉。 ・昭和十八年 六十一歳 五月二十五日、 雨情除籍、分家される。 七月、ヒロが野口家に復籍。 雨情二月に発病。 ・昭和十九年 六十二歳 鹿沼市に住んで足尾銅山への物資の調達などをしていた、つるの父・中里九一郎の紹介で栃木県河内郡姿川村 現・宇都宮市 鶴田一七四四番地に疎開、療養生活に入る。 疎開とはいっても、実際は戦争中に軍歌を作らなかったため、懇意にしていた主婦の友社社長が心配して軍部に追及される前に東京から逃れさせたとの説もある。 事実、雨情は親しい人に 「戦争は詩にならない」と話していた。 ・昭和二十年 1945年 一月二十七日、永眠。 享年 満 六十二。 三月に磯原の野口家墓地に分骨埋葬される。 墓碑には『野口雨情墓』 つる夫人は、昭和三十年秋に武蔵野市に引き揚げ、昭和五十五年二月二日、七十七歳で死去。 東村山市にある小平霊園に埋葬。 墓碑には『野口英吉・妻つる』。 雨情とともに眠っている。 <三男九女をもうけた> 雨情はヒロとの間に一男二女、つるとの間に二男七女、合わせて三男九女をもうけた。 明治三十七年十一月、二人とも二十二歳で結婚したヒロとの間に一男二女。 ・明治三十九年三月に長男 雅夫誕生。 ・明治四十一年三月に長女 みどり誕生。 生後八日間で死亡。 ・大正二年四月に二女 美晴子誕生。 大正四年五月にヒロとの協議離婚届を出し、ヒロはさくら市喜連川に帰ったが、大正九年九月に野口家に戻り、雅夫の母として昭和十八年七月復籍。 その年の五月に雅夫から雨情を隠居させる届と分家させる届が相次いで提出され、戸籍が全面的に組み替えられた。 この事実は昭和十八年末に、転居の準備として磯原町役場から戸籍謄本を取り寄せた際に知ることとなった。 結婚後は大正十年、東京へ出て巣鴨に住む。 王子から早稲田間を走っている都電の線路にかかるため、大正十三年三月に武蔵野市吉祥寺に新居を新築。 中里つるとの間に生まれた子供たちは新戸籍に。 カッコ 内が旧戸籍。 つるとの間に二男七女。 ・大正八年九月に長女 三女 香穂子誕生。 ・大正十年十一月 四女 恒子誕生。 十三年九月に死去のため、新戸籍には載っていない。 ・大正十四年二月に二女 五女 千穂子誕生。 ・昭和二年八月に三女 六女 美穂子誕生。 娘の名前に香穂子、千穂子、美穂子と、野口家の「野」から連想した稲穂の「穂」の字を付けた。 ・昭和五年三月に 二男 九萬男誕生。 同六年八月死去。 ・昭和六年八月に長男 三男 存彌誕生。 存彌 のぶや は、早稲田大学卒業後も、父雨情作品の解明に没頭し、膨大な資料の整理をしていたが、平成二十七年三月に脳出血で意識不明となり、十二月五日に亡くなった。 生涯独身。 存彌の正確な雨情像を伝えたいという気持ちは道半ばだった。 自身のこと兄弟姉妹のこと、母つるのこと、そして雨情の作品がつるとの二度目の結婚後に発表されていることを何よりも言いたかったのでしょう。 ・昭和八年三月に四女 七女 陽代誕生。 ・昭和十年十月に五女 八女 喜代子誕生。 ・昭和十三年六月に六女 九女 恵代誕生。 つる、四十二歳の時、雨情没。 つるは、昭和五十五年に七十七歳で死去。 つるは、雨情の二番目の妻であり、十六歳で雨情と出会ってから生涯を雨情ととともにした人で、芯の強いしっかり者。 雨情に愛されたという点では幸せであったが、野口家の籍に入ったものの、いつのまにか先妻が戻ってきて野口家を継いでいた、というような事情もあって、妻として、かたちの上からは気の毒な面もあった。 存彌の研究活動からは、母つるを磯原の野口ヒロ・雅夫一族から守るというメッセージが感じられる。 正業に就かなかった雨情が作った二つの家庭からは、おのずと雨情の印象が異なってくるのは当然だろう。 雨情はヒロ一族とつる一族がいがみ合うのは見たくなかった。 雨情は几帳面でありながら、自身に関して語った文章も少ない。 雨情は作品そのものが自己を語り、自己の歴史と考えていたとされている。 家族に縛られず、自由人でありたかった雨情は、いつまでも文学青年でいたかったに違いない。 親、妻、子に苦労を掛け、わがままを通し続けた生涯だった。 <雨情が好んだ物> 雨情の研究家で言語学者の金田一春彦は、『野口雨情民謡選』から、雨情が何を好んだかを分析している。 [植物]一番がすすき、次いで桜、菜の花、麦、笹、松、茶の木、バラ。 特色はすすきと笹といったごく地味なものにある。 菜の花、麦、茶の木などは、土の詩人といわれるゆえん。 [動物]一番がカラスで、童謡「七つの子」がある。 次いで馬、スズメ、鶏、トンボ、牛、イタチ、ツバメ、ウグイス、千鳥、ホトトギス、タニシと続く。 [天体]童謡「十五夜お月さん」「雨降りお月さん」など月が多い。 星も多いが、満天の星ではなく、一つ星なのが雨情らしい。 童謡「あの町この町」のなかの「お空に夕べの星が出る」も一つだけ出たものを詠んでいる。 [天候]雨。 雨情と号したほど。 次いで風。 人の心を全然察することなく勝手に通り過ぎて行く非常なものと捉えている。 [季節]秋、時間では断然夕方が多い。 月もからんで最も詩情を感じるのだろうか。 [場所]畑が多い。 川も多い。 人や動物に対しては、親と子を並べて歌ったものが多い。 [衣]草履や下駄に特別な愛着を持っている。 このように雨情の詩は、自分の感じた事だけを詩に書き、やさしい言葉で表わそうとしたのが特色。 したがって、子供から高齢者まで愛されている。 三十年も前、NHKで野口雨情の歌の特集をした。 黒い着物を着た歌手の森進一が歌ったのだが、暗い背景に暗い歌ばかりだった。 月、風、秋、すすき、雨・・・。 聴いている方は暗い気分になり終わったので、今でも覚えている。 以上は、『詩人・野口雨情ここにて眠る』宇都宮市明保地区明るいまちづくり協議会 平成二十八年一月 小島延介を参考にしました。 それはルールです。 に戻る 平井英子関連の 「あの町この町」 中山晋平が伴奏をして平井英子が歌っているもの。 レーベル 番号 曲 名 ビクター 50503 あの町この町、てるてる坊主 ビクター 50669 證城寺の狸囃子、かくれんぼ ビクター 50702 兵隊ゴッコ、牧場の羊の歌 ビクター 50794 ねんねんほろり、夏の雲 ビクター 50365 白頭鳥(ペタコ)、風鈴 コロムビア C18 てるてる坊主 ビクター 50899 雨降り雲、兎のダンス ニッポノホン 16772 露地の細道、てるてる坊主 (林秀子の名) ビクター 50536 雀、こんこん小狐 ビクター 50558 元日、こがねむし 平井英子関連の 歌手は平井英子 番号 曲 名 マトリッ クス番号 註 50365 (A)白頭鳥、 B 風鈴 - 刻印はレコード 番号と同じ 50365A、 50365B (以下同) 50503 (A)あの町この町、 B てるてる坊主 - 50536 (A)雀、 B こんこん小狐 - 50558 (A)元日、 B こがねむし - (註1) 50669 (A)證城寺の狸囃子、 B かくれんぼ 50、51 刻印も50、51 以下同じ 50681 (A)茶目子の一日(上)、 B 茶目子の一日(下) 77、78 50702 (A)兵隊ゴッコ、 B 牧場の羊の歌 200、201 50751 (A)蛙の夜廻り、 B 動物園で 305、306 50794 (A)夏の雲、 B ねんねんほろり 443、444 50871 (A)毬ちゃんの繪本 上)、 B 毬ちゃんの繪本 下) 611、612 50899 (A)兎のダンス、 B 雨降り雲 681、682 51027 (A)母の歌(佐藤千代子)、 (B)母を慕ふ歌(平井英子、石井亀次郎) 994 993 51071 (A)白いお耳、 B ころがりお月さん 1078、1077 51117 (A)手の鳴る方へ、 B 朝の鈴 1331、1332 51206 (A)ナイトナイトさん、 B ポチとカロ 1470、1544 51438 (A)キューピーピーちゃん、 B 肩たたき 2003、2002 51821 (A)あめふり、 B 砂山 3040、3039 52080 (A)お山の駱駝、 B 迷子の子猿 3550、3549 52114 (A)汽車汽車走れ、 B ふきあげる 3598、3599 52636 (A)かなりや、 B お客様 3842、3206 52710 (A)仔犬ヲツレテ、 B しゃれうさぎ 4952、4951 52878 (A)雨降りお月、 B 毬と殿様 5617、5618 V 40191 チンドンや、キューピーピーちゃん JVE3204、JVE2003 刻印3204、2003(註2) B 164 十五夜お月さん、雀のお宿(本多信子) 4092、4271 (註3) B 113 兎のダンス、肩たたき 281、2002 (註4) (註1) この間にマトリックス番号をきちんと表示する切り換えの時期があったのでしょう。 それまでは、レーベルと溝の間に、「白頭鳥」なら、50365Aと刻印があり、レコード番号とA、Bを刻印してあるのみ。 (註2) V40181の「キューピーピーちゃん」はマトリックス番号2003なので、51438と同録音の組み合わせを変えての再発売もの。 (註3) B164「十五夜お月さん」も再発売であることがわかります。 (註4) B113「兎のダンス」は50899A、「肩たたき」は51438Bの再発売。 「あの町この町」の児童レコードにはマトリックス番号記載なく、。 カタカナ書きの詩と曲は同時掲載。 挿絵・岡本歸一。 「コドモノクニ」大正14年11月号より 岡本歸一画 コドモノクニ 1925年11月号 表紙 岡本歸一画 裏表紙 清水良雄画 【レコード初吹き込み】 歌手・平井英子(ビクター51821 A面「あめふり」B面「砂山」)、昭和6年7月。 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんから、所有しているビクターレコード51821-Aの歌詞カードを送っていただきました。 タイトルは「あめふり」と平仮名です。 歌詞は「オムカヒ」と書いてあります。 平井英子の可愛い写真に注目。 【天気予報 今昔】 今日では、テレビのニュース番組を見ていると必ず天気予報があり、予報士がわかりやすく説明をしてくれます。 一週間の天気予報、日本だけでなく外国の天気予報もあります。 そして以前に比べて正確になりました。 昔は、空を見て自分で予測していましたので、朝晴れていても、学校が終わる頃には雨が降る事がしばしばありました。 そんな時、校門に傘と長靴を持って迎えにくる母親の姿がありました。 ほとんどの子供は、傘が欲しいと思いながらも、濡れて帰ったものです。 【急な雨降りは嬉しい】 この歌では、「アメアメ フレフレ カアサン ガ ジヤノメ デ オムカヒ ウレシイナ。 」と、母さんが迎えに来てくれる雨降りは嬉しいと白秋は書いています。 本来、だれにとっても突然降る雨は迷惑なものでしょうが、それを母親が迎えに来てくれるからかえって嬉しいもので、雨よ、もっと降れ降れという主張には、価値観を転換させる効果があります。 雨も考え方によっては悪くないものとする前向きの精神が感じられます。 【ジヤノメ】 お迎えに来てくれた母さんがさしているのは、蛇の目のように同心円をかたどった和傘の「蛇の目傘」です。 開いた時丸く見える白地の輪が、大蛇の目を思わせる事からついた名称で、竹の細い骨に水をはじく特殊な加工をした油紙を張った番傘より細く上品なものです。 今では、日常生活ではほとんど見かけなくなりました。 時折り、テレビの時代劇で見る程度ですから、今の子供には説明しても、どのような物か理解できないかもしれません。 洋傘は「こうもり傘」と呼ばれていました。 【「オムカヒ」北原白秋は】 北原白秋は、歴史的かなづかいの「オムカヒ」と書きました。 「おむかい」と読みます。 昔の日本語は、書き方と、読み方が違います。 これは東京方面の古い方言。 「おむかえ」がなまって「おむかい」になったものです。 昔、神奈川県西部地区でも「おむかい」は、使われていました。 北原白秋は、『アメフリ』を発表した大正十四年には、小田原に住んでいたので、白秋も日常使っていた言葉です。 註・北原白秋は、大正七年三月五日 小田原町御幸浜の養生館に住む。 現・小田原市本町 から、大正十五年五月一日までの八年間小田原に住んでいました。 かつて、「おむかい」を使った事のある神奈川県西部地区の人は、「オムカヒ」を、白秋の誤用や植字工の誤植と思う人はいません。 【「オムカヒ」レコード歌手は】 平山美代子、中山梶子、尾村まさ子、金森りつ子、は、「オムカヒ」と歌いました。 平井英子も、佐々川浩子も「オムカヒ」と歌いました。 こちらの資料として保存しているものは全て『オムカヒ』となっています。 後にこの曲が出版されるにあたり、子供向けの童謡だったこともあり『オムカヒ』では『お向かい』 向かい合う意味 と混乱するので、出版社の方で『おむかえ』と訂正して、だされたものがあるそうです。 【『童謠小曲』は「おむかひ」】 中山晋平『童謠小曲』第九集、「 アメフリ」「こんこん小狐」掲載。 「鶯の夢」「春が來る」「カッコ鳥」計5曲。 <第九集の奥付について> 参照 ・昭和四年 1929年 二月十日発行 国立所蔵 ・昭和七年 1932年 八月十日発行 国立所蔵 ・大阪府立中央図書館 国際児童文学館 所蔵の奥付 大正十一年 1922年 十月二十日発行。 この発行日の記載は第一集のもので、第九集の初版ではない。 大正十五年 1926年 十月十日四版 大阪所蔵)。 【春秋社版の楽譜は「おむかひ」】 小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謠曲集』(春秋社、昭和五年発行)は、「おむかひ」になっています。 【教科書は「おむかえ」】 『改訂版しょうがくせいのおんがく2』 音楽之友社 昭和三十三年発行では、「おむかえ」「あとからいこいこ」「やなぎのねもとで」に変えて掲載しました。 文部省は方言の「オムカヒ」を標準語の「おむかえ」に変えて教科書に掲載し、全国の学校で教えたので、ここから子供たちは「おむかえ」と歌いだしました。 ですから、楽譜によっては「おむかい」のものや、「おむかえ」のものがあるのです。 近年、「おむかえ お迎え 」で歌われる事が多くなっています。 文部省が学校教育で標準語を教えた結果、「おむかい」は死語になったからです。 時代が進み、もう、だれも使っていません。 幼い子供に『<お迎い>は<お迎え>のなまりで、れっきとした日本語。 「おむかえ」と歌うのは誤り。 「おむかい」と歌うのです』という指導者がいたとしても、通用しません。 みんなが「おむかえ」と歌います。 童謡は時代の生き物です。 この歌は、「おむかえ」と歌われ、これから先も、愛唱され続けて行くことでしょう。 註・オリジナルを追求したコンサートやCDでは初出のまま「おむかい」と歌われています 「行く」は、童謡では「ゆく」、文部省唱歌では「いく」の発音が一般的です。 『改訂版しょうがくせいのおんがく2』 音楽之友社 昭和三十三年発行では、「あとからいこいこ」と変えて掲載しました。 文部省唱歌の考えから「いこいこ」にしたのです。 誤りではありませんが、この歌は童謡なので、「ユコユコ」のまま掲載してほしかった。 歌われているのは「ユコユコ」の方です。 「ヤナギ ノ ネカタデ」の「ネカタ 根方 」は、二年生にもわかるように、「ねもと 根元 」にしたのでしょう。 「根方」は「根元」の意味ですが、このように歌詞を変えると、みんなで集まって歌う時、混乱が生じます。 「ヤナギ ノ ネカタデ」のまま掲載してほしかった。 歌われているのは「ネカタ」の方です。 「根方」という言葉は、あまり使われなくなりましたが意味は通じます。 【柳の根方で泣いているのは誰? 】 「柳の根方で泣いている」のは、男の子でしょうか? 女の子でしょうか? <考察1 歌詞を見る> 歌詞の中には、傘を貸した子の性別がはっきりとは書いてありません。 ヒントになる部分は、わずかに「あらあら あの子は ずぶぬれだ」「柳の根方で 泣いている」「キミキミ この傘 さしたまえ」です。 まず、男の子だとしたらどうでしょうか? 昔は、男の子は人前で泣いてはいけないと教育されました。 男の子なら、たとえずぶぬれになっても、雨の中を走って帰ったことでしょう。 雨ごときで泣いている男の子というのは考えにくい情景のように思われます。 これが女の子だったら、ずぶぬれになってしまって泣いているのも理解できます。 「キミキミ コノカサ サシタマへ」という表現は、現在は子供同士では使わないでしょう。 中村幸弘編著『読んで楽しい日本の童謡』 右文書院 には、次のように書いてあります。 「キミ」という呼びかけは大正時代、男の子にも女の子にも用いられたと思います。 自分の傘を貸してしまった僕は、母さんの大きな蛇の目傘に一緒に入ります。 蛇の目傘の大きさは、母さんのあたたかさでもあります。 安心して甘えられます。 迎えに来てもらった事が嬉しかったのですが、思いがけず嬉しさが二倍になりました。 母さんが迎えに来てくれたことと、傘を貸したことで、ちょっぴり優越感にひたっている得意げな僕を母さんが見守っています。 母さんの優しいまなざしが伝わってくる歌です。 歌からそのぬくもりが感じられます。 <考察2 挿絵を見る> 初出の『コドモノクニ』 東京社 大正十四年十一月号の挿絵は、男の子に傘を貸しています。 挿絵を描いた岡本歸一がそのように解釈したからです。 この頃は、楽譜が読める人は少なく、童謡は絵本の挿絵から入るのが普通でした。 したがって編集の方も挿絵に力を入れ、優れた挿絵画家が次々出ました。 当時人気の岡本歸一の挿絵で「男の子に傘を貸す」場面を見た人々は、雨に濡れて泣いていたのは「男の子」と思い込んでしまったことでしょう。 岡本の挿絵では男の子は二人とも洋装で肩掛けカバンです。 北原白秋の詩集『太陽と木銃』(昭和十八年発行、フタバ書院成光館)の「雨ふり」の挿絵は石井了介画で、洋装でランドセルの男の子が、着物で肩掛けカバンの男の子に傘を貸そうとしています。 遠景のひとつ傘の女子二人はランドセル、半ズボンの男子は肩掛けカバンに描かれています。 「コドモノクニ」大正14年11月号より 岡本歸一画 白秋『太陽と木銃』石井了介画 川上四郎の挿絵も男の子に傘を貸しています(昭和十二年、1937年.講談社の絵本『童謠画集』所収)。 男の子が共にランドセルを背負っています。 もとの詩の「カバン」は岡本帰一の挿絵にあるような肩掛けカバンを意味しているはずです。 ランドセルは戦前までは、どちらかといえば都会型の商品とされ、地方では教科書やノートを風呂敷に包んで通学するのが一般的でした。 全国的にランドセルが普及したのは昭和三十年代以降です。 ランドセルを背負った「女の子」が木の下で泣いている絵です。 絵の作者は不明。 1961年7月1日刊 音羽ゆりかご会監修『日本の童謡・唱歌絵本』 主婦と生活社 平成元年発行に掲載されている「あめふり」の絵も「女の子」に傘を貸した後の絵です。 挿絵は森泰章。 泣いているのは女の子で、男の子も女の子も肩掛けカバンです。 宮崎駿監督のアニメ映画『となりのトトロ』(1988)では、カン太がお地蔵さんのところで雨宿りしているサツキに傘を貸す場面があります。 カン太は転校生のサツキが気になりますが、男の子のプライドから声をかけることができません。 逆にベーと嫌がるしぐさをしたりしています。 この映画の背景は昭和30年代の後半で、普通の家には電話もテレビもない時代です。 小学校高学年の少年が女の子に軽々しく口をきくようなことは軽挙妄動としてはばかられるような雰囲気がありました。 梅雨時の突然のどしゃ降りで、サツキと妹のメイはお地蔵さんのところで雨宿りをしています。 そこへ通りがかったカン太は自分がさしていた黒い大きなボロ傘をメイに差し出すのですがこのときカン太はサツキを「キミ」と呼びはしません。 「ん!」というだけです。 サツキが受け取っていいものかどうか迷っていると、再びカン太は傘を差しだしますが、このときもただ「ん!」というだけです。 サツキが傘を受け取らないので、カン太はその場へ傘を置き、自分はズブ濡れ覚悟で雨の中を走って帰ります。 サツキたちはこの傘をさして家に帰り、夕方父親を迎えにバス停に行くついでにカン太の家に立ち寄り、傘を返しますが、この時点でカン太は母親に女の子に傘を貸したことを言っておらず、「学校に忘れた」と言い張っています。 母親は雨が降っているのに傘を忘れるなんてありえない、おおかた遊んで壊してしまったに違いないとカン太を叱ります。 女の子に傘を貸すなんて優しい行動を取る自分が恥ずかしくて親には言えないというのが男の子のプライドなのです。 これが、小学校の低学年の男の子なら女の子に傘を貸すことも恥ずかしくはなかったでしょう。 主人公の男の子の年齢も画家によって微妙にちがって設定されています。 時代を反映しているのでしょう。 大正・昭和の初めは「男の子」に傘を貸す絵で、近年は「女の子」に傘を貸す挿絵が多いようです。 歌詞には「男の子」か「女の子」か書いてありませんから、歌う人が自由に解釈できる余地が残っているようです。 【僕の心の嬉しいリズム】 詩は、曲をつけることを考慮し整っています。 全体にリズムがあるので曲はつけやすかったと思われます。 「カケマシヨ カバン ヲ カアサンノ」は、特に韻をふんでいてリズミカルです。 雨でも、お母さんが迎えに来てくれるので、楽しいという歌です。 その向うに温かい家庭がうかがえます。 各節の締め括りに繰り返し出てくる「ピツチピツチ チヤツプチヤツプ ランランラン」という雨が跳ねる音が、詩全体を明るく弾んだものにしています。 「ボク」の嬉しい心が「アメ」と一緒に踊っているようです。 白秋と晋平の才能が光っています。 しかし、手持ちのSPは、すべて「オムカヒ」と歌っています。 「僕ならいいんだ 母さんの大きな蛇目に入ってく」となっていて、僕の行動がよく分かります。 では、二番の詩はどうでしょうか。 「かけましょ鞄を 母さんの後からゆこゆこ 鐘が鳴る」 「カケマショ カバン ヲ」子供が自分の肩掛けカバンを掛けて、「カアサンノ アトカラ ユコユコ」お母さんの後からついて行くようすです。 「カアサンノ カバン ヲ カケマショ」と語順転置されているわけではありません。 二番で注目したいのは、韻をふんでいるリズムです。 「カケマシヨ」「カバンヲ」「カアサンノ」そして「カネガナル」でまとめてあります。 このページの記載は、私が小さかった頃に高齢の方々が「おむかい」と言う言葉を日常会話の中で使っていたのを思い出して到達した結論です。 私は、小田原市近郊の足柄上郡に住んでいます。 これを利用される場合は、「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と出典を明記してください。 それはルールです。 【発表誌】 雑誌『コドモノクニ』 東京社 四巻二号 お正月臨時号/大正十四年 1925年 一月二日発行 に掲載。 「 雨降りお月さん 」の詩のタイトルの下に 曲譜附 と書いてある。 詩と曲は同時掲載。 挿絵は岡本帰一。 大正十四年は大正期童謠のピークでした。 『コドモノクニ』は、一月に「四巻一号 一月号」大正十四年一月一日発行と、「四巻二号 お正月臨時号」大正十四年一月二日発行の二冊を出した。 特に、野口雨情はこの時期次々と童謠を発表し活躍している。 詩と楽譜のタイトルは『雨降りお月さん』。 歌手の平井英子は「だれ」「おんま」と歌いました。 「お馬」を「おんま」と歌うのは童謡の一般的な歌い方です。 晋平は、どの子供にもわかりやすく、気軽に歌えるようにとの考えから「だれとゆく」にしたのでしょうが、初出詩のように「たれとゆく」と歌うと、美しい響きになります。 【「雨」と「月」を愛した雨情】 雨情は、「雨」と「月」に対して特別な思いがあったようです。 「雨情」という号は、中国の古文の中にある「雲根雨情」からとったもので、「春雨がしとしと降る優しさ」という意味です。 「雨」が好きで、特に春雨が好きでした。 さらに「月」も好きで、雨情の孫の不二子さんによると、「雨情は、月に特別の親しみを感じていたようです。 月光は、万物を平等に照らすでしょう。 そのへんが気に入っていたようで。 野口家では、代々三日月に柏手を打って感謝とお願いごとをする風習があり、今も私はそれをやっています」。 」・・・「月は無限のありがたみがある。 想像の蔵なんでやんすよ。 お月さまは、光といっしょに物語を放っていらっしゃる。 お月さまの光は、子どもの心なんだよ。 【詩の考察】 このような雨情の「雨」と「月」に寄せる思いをふまえて『雨降りお月さん』の詩を見ると、雲の蔭で見えないお月さんが、お嫁に行く時にはどうして行くのだろうという、月を擬人化した詩と解釈できるでしょう。 シャラシャラ シャンシャンと鈴の音が空に響くようです。 大好きな美しい月を花嫁にしたいという雨情のせつない気持ちが伝わってきます。 現実には、最初の妻の輿入れが背景にあったと言われています。 【ひろとの結婚事情】 雨情の生家は、かつて水戸徳川家藩主の御休息所で「観海亭」と称され、「磯原御殿」とも言われた名家で、家業は廻船業を営んでいました。 明治三十七年一月、雨情二十二歳の時、父量平が村長在職中に亡くなったので、帰郷し、家督を継ぐと共に高塩ひろと結婚しました。 盛大な結婚式だったようです。 「野口雨情記念館」によると、輿入れの日は、明治三十七年十一月で、日にちはさだかではなく、戸籍にも記載されていないそうです。 不二子さんが、子どもの頃おばあさん 雨情夫人・ひろ から聞いた話では、輿入れの日は、あいにくの雨で、栃木県塩谷郡喜連川から馬に乗り、濡れて二日もかかって野口家までやって来ました。 白無垢姿の花嫁は、百日紅の木がある門をくぐり、出迎えた雨情と初めての対面をしました。 この文には間違いがある。 『輿入 こしい れの日が雨でねえ、 栃木県 塩谷郡喜連川 しおやぐんきつれがわ から馬に乗り、びしょ濡れになって、二日もかかって・・・』と。 雨情もきっと、この時の模様を思い浮かべて詩をつづったと思います」『歌をたずねて』 毎日新聞学芸部編 によると、いまも野口雨情の生家に住む孫の野口不二子 ふじこ が、『雨降りお月』のエピソードをこう話したという。 つる夫人が北茨城の野口家に嫁いだのは大正七年 一九一八年)のこと。 いまでは、そんな風習もすたれてしまつたが、『雨降りお月』の歌の世界が、そうした昔をしのばせてくれる。 雨情夫人ひろ が正しい。 「ひろ夫人が北茨城の野口家に嫁いだのは明治三十七年十一月」が正しい。 この間違った「つる」の記載は、その後、多くの研究者が使い、失敗を繰り返しています。 雨情もきっとこの時の模様を心に思い浮かべて詩をつづったと思います」と不二子さん。 『NHK日本のうた ふるさとのうた100曲』 講談社 の編者「日本のうた ふるさとのうた」全国実行委員会が、読者にわかりやすくと、加筆したものだとわかりました。 間違ったものを加筆してしまいました。 生活は貧しく、豪華な結婚式ができるような状況ではなかった。 【つゞきの曲】 『雲の蔭』は、雑誌『コドモノクニ』 東京社 大正十四年三月号で発表 されました。 『雨降りお月さん』が好評だったので、続きとして作ったものです。 また、奥付の説明「お母様方のために」にも、次のように書いてあります。 あれと一緒にしてお唄ひ下さると面白さも一入(ひとしお)だと信じます。 挿絵は岡本歸一。 雑誌『コドモノクニ』 大正十四年三月号 装丁 岡本歸一 【『雲の蔭』はこれだ】 「コドモノクニ」大正14年3月号より 原画 岡本歸一) 【「明ける」「明けよ」歌唱の考察】 『コドモノクニ』に発表した『雲の蔭』の雨情の詩は「夜が明ける」で、晋平の楽譜は「よがあーけーよぅ」になっています。 晋平が、明るい響きの歌詞に変えて作曲したものです。 「るー」と「よー」では一字違うだけですが、歌ってみると、その違いがはっきりわかります。 大正十五年四月出版の中山晋平 曲『童謠小曲』第八集 山野楽器店 に収録の『雲の蔭』の楽譜は『コドモノクニ』と同じです。 前記レコード・歌手の平井英子は「夜が明けよ」と歌いました。 【晋平苦心の作】 全体がタタタンタンのリズムでできていて、馬の歩みを表現しているようです。 中山晋平は、二曲とも同じメロディーで歌えるようにしたいと考えました。 しかし、歌詞のアクセントが異なるので合いません。 そこで、 『雲の蔭』は所々高低を変えて変奏曲のように仕上げました。 晋平苦心の作品です。 しかし、『雲の蔭』は実際にはなかなかうまく歌えません。 苦心して変奏曲のように仕上げたことで、かえって歌いにくくしてしまったことに、晋平は気付いていませんでした。 【「雨降りお月」は、これだ】 中山晋平曲『 童謠小曲 』 第八集 山野楽器店 大正十五年 1926年 四月十日 発行 に収録。 歌詞・楽譜のタイトルは「 雨降りお月 」です。 と添え書き がある。 『雨ふりお月』は『雨降りお月』の誤植でしょう。 『コドモノクニ』に発表した『雨降りお月さん』の楽譜は「だれとゆく」になっていましたが、『童謠小曲』第八集も「だれとゆく」のままです。 しかし、ここで晋平は 伴奏譜の前奏と後奏を華やかなものに書きかえました。 中間部の伴奏も少しリズムがかえてあります シンコペーションのリズムにした。 この楽譜で歌ってほしいのです。 書きかえた楽譜の曲名は改題され『雨降りお月』に なっています。 そのため以後の出版楽譜のタイトル名は『雨降りお月』なのです。 この改訂楽譜『雨降りお月』を元にアレンジされレコーディングされた レコードの曲名は『雨降りお月~雲の蔭』 です。 <レコード情報> 曲名は『雨降りお月~雲の蔭』 ・ビクターレコード番号 50898 昭和四年(1929年)10月発売 歌手は佐藤千夜子。 中山卯郎著『中山晋平作品目録年譜』(豆の樹社)による)。 一つは『コドモノクニ』に掲載した楽譜で、曲名は『雨降りお月さん』。 もう一つは書き直して『童謠小曲』第八集で発表した楽譜で、曲名は『雨降りお月』。 これではっきりしたと思いますが、楽譜の曲名が『雨降りお月さん』では、初出の『コドモノクニ』の楽譜をさします。 現在、初出の『雨降りお月さん』の楽譜は出版されていません。 出版されているのは晋平が書き直した『雨降りお月』の楽譜の方です。 その楽譜にしたがって演奏されるので、曲名は『雨降りお月』です。 まず、『雲の蔭』の楽譜は、『コドモノクニ』と『童謠小曲』と同じです。 「よがあーけーよぅ」の部分も同じ。 晋平は、後から作曲した『雲の蔭』の後奏五小節を、たいへん気に入りました (左図参照)。 その五小節は、ピアノ伴奏右手部分に、オクターブのスタカートで弾く上昇進行や、シンコペーションのリズム、アルペッジョが使ってある。 そしてフェルマータがある。 このフェルマータは晋平会心の作。 きっと、気に入っていた。 そこで自分の曲譜集『童謠小曲』第八集に収録の時、『コドモノクニ』に掲載した『雨降りお月さん』の歌い出し前五小節を、この『雲の蔭』の後奏五小節と同じに書きかえ フェルマータは省略、二ヶ所和音を変更、オクターブ記号の位置も移動 、華やかな曲に仕上げ、曲名を『雨降りお月』にしました。 『コドモノクニ』の 『雨降りお月さん』 前奏。 二段目の五小節 に注目 『童謠小曲』の 『雨降りお月』 前奏。 二段目の五小節 が華やかに変化 さらに、『コドモノクニ』に掲載した『雨降りお月さん』では、「後奏が四小節」でしたが、『雨降りお月』の「後奏も同じ五小節」を使って華やかにしました。 『コドモノクニ』 の『雨降りお月さん』 の後奏四小節 『童謠小曲』の 『雨降りお月』の 後奏五小節 華やかになっている。 『雲の蔭』の後奏 五小節とほぼ同じ つまり、『雲の蔭』の出だしには前奏がありませんが、『雨降りお月』の「後奏五小節」が『雲の蔭』の前奏になるのです。 一つの作品として続けて歌うのです。 このように、『コドモノクニ』に発表した楽譜『雨降りお月さん』とは、異なるので、初出の楽譜と区別するために、曲名を変更して『雨降りお月』としたのです。 改作前の初出の『雨降りお月さん』の楽譜は、単純でレベルが低い。 晋平が、この『雨降りお月』の楽譜を、作詞者の野口雨情に見せ、前奏と後奏、その他書きかえた部分の複雑な説明をして、改題の了承を得ているとは思えません。 しかし・・・」と書き、『雨降りお月』のタイトルで全ての楽譜が出版され、同タイトルで佐藤千夜子のレコードが出て歌われている事に不思議がり、不満を述べている。 これは、雑誌『コドモノクニ』の『雨降りお月さん』の楽譜と、『童謠小曲』第八集の『雨降りお月』の楽譜を比べて見ていないからです。 童謡の論文を書く時、詩人雨情の方側からしか見ていないのは、片手落ちです。 しかし、藤田圭雄が書いた不思議がり、不満を述べている文章は、驚く事に全部正しい。 「・・・つまり、大正十五年四月、 『童謡小曲8』に収録する時、中山晋平が勝手に「雨降りお月」とし、それがそのままレコード界では正しい題名のようにいいつがれて来ているので、 野口雨情本人とは関係のないことのようだ。 」とある。 これは間違い。 掲載楽譜は『童謠小曲』第八集のものなので、正しい曲名は『雨降りお月』。 さらに、1番の下に2番として『雲の蔭』の歌詞が書いてある。 これも間違い。 次のページに『雲の蔭』の楽譜を続いて掲載するのが正しい。 湯山昭・中田喜直・阪田寛夫・藤田圭雄監修なのに誰もミスに気付かなかった。 「1番の下に2番として『雲の蔭』の歌詞が書いてある。 」という間違いは、多くの出版楽譜で見かけます。 歌ってみれば、すぐわかることです。 【二曲まとめた雨情と晋平】 ・ 野口雨情は、二曲まとめて題名を『雨降りお月さん』とし、 童謠集『螢の燈台』 新潮社 大正十五年六月発行に収録しました。 一 二 となっていて、二 には初出にあった『雲の蔭』のタイトル文字はありません。 一の詩は「誰 たれ とゆく」で、二の詩は「夜が明ける」。 最初に発表した雑誌『コドモノクニ』の 詩と同じです。 ・ 中山晋平 曲『童謠小曲』第八集収録の楽譜は、『雨降りお月』と『雲の蔭』という曲名のついた別々の楽譜です。 ただし、『雨降りお月』に続いて次のページに『雲の蔭』が掲載してあり、一つの作品として続いて歌うようになっています。 これが「一つの作品に併合」の意味です。 「後にふたつあわせて「雨降りお月」という詞が完成しました」の「雨降りお月」は間違い。 二つあわせた詩のタイトルは「雨降りお月さん」。 【後記】 この『雨降りお月さん』『雲の蔭』の項目は、多くの方に見ていただき、 「納得した」「すっきりした」という声をいただきました。 よりわかりやすくするために、説明に楽譜を付け、岡本帰一の美しい挿絵も、カラーで紹介することにしました。 いかがでしょうか 2010年9月20日。 【さらに調査】 2013年2月12日、厚木市立中央図書館で『東京朝日新聞縮刷版』昭和二年(1927年 8-11月を調査。 「雲のかげ」というタイトルで 獨唱 で歌われていた。 ラヂオ番組表の下には、歌詞も掲載されている。 合唱と獨唱 『木の葉のお船』 合唱 かへるつばめは木の葉のお舟。 ネ、波にゆられりや。 お舟はゆれるネ、サゆれるネ。 舟がゆれれば燕もゆれるネ。 「舟」は間違い。 「船」が正しい。 「かへるつばめは」は間違い。 「歸る燕は」が正しい。 「燕」は漢字。 「 お馬よ」「お袖 で」「雲の 蔭」が正しい。 読売新聞の昭和二年(1927年)八月二十四日、朝刊9ページには、もっと詳しく書いてあります。 六曲とも歌詞が掲載してありました。 「燕はかへるネ」が正しい。 「 ちよいと見たりや」「お袖 で」が正しい。 ありがとうございました(2013年12月5日)。 (註II)同じ日の同じ番組の紹介でも、新聞により異なる事がわかりました。 新聞記事は詳しく正確に書いて欲しいと思います。 歌唱の音符はタッカタッカのはずむリズムです。 通巻号数3巻5号。 岡本帰一/画。 色刷りのページには詩のみが掲載され、別の箇所に曲譜 1ページ が付いている。 詩と曲は同時掲載。 『コドモノクニ』は、大阪国際児童文学館で閲覧できます。 これは間違い。 この絵は『童謠小曲』第七集の加藤まさをが描いた表紙の絵。 「岡本歸一が描いた四匹の兎が踊っている絵がページを飾った」が正しい。 【音楽会でのあつかい】 大正十三年四月十二日 土曜日 午後一時半から、丸ノ内報知講堂に於て、「子供芸術大会」が催された。 入場料は壱円。 プログラムには、〔第一部 七、童謠のお稽古 中山晋平 1兎のダンス「コドモノクニ」五月号掲載 2あの町この町「コドモノクニ」一月号掲載〕。 とあり、〔第二部 四、舞踊 兎のダンス「コドモノクニ」五月号掲載 藤間 社中〕となっています。 プログラムから、中山晋平が集まった人たちに『兎のダンス』との歌い方を教えたことがわかります。 また、藤間 社中が踊りを披露しています。 これにより、みんなが歌や踊りを覚えて帰り、それは口から口へ伝わって全国に広まりました。 歌も踊りも大人気となりました。 楽譜が読めない人がほとんどの時代のことです。 【曲の収録】 ・中山晋平曲『童謠小曲』第七集 山野楽器店 一九二六 大正十五 年四月十日発行に収録。 加藤まさを/装画。 兎と女の子が跳ねて踊っている『兎のダンス』が表紙になっている。 この曲集の表紙は1-12集は加藤まさを、13-17集は竹久夢二が装幀しました。 第七集には『あの町この町』も掲載されている。 『童謠小曲』は一冊五十銭(池田小百合所蔵、勉強のためなら公開可)。 童謠小曲 第7集 加藤まさを装画 大正15年4月 「兎のダンス」が表紙 になっている。 この冊子は水彩に よる手彩色である。 裏表紙は兎が月を見ているとこ ろ。 月は淡い黄色で半分弱だけ 描かれている。 手彩色なので 一冊一冊微妙に色が異なる。 「童謠小曲」第7集より 下も同じ) 「童謠小曲」第7集より ・『中山晋平童謠曲集』第二編 東京 新興音樂出版社 昭和九年発行の表紙は、兎が横笛を吹いている絵 「ひろし」のサインがある ですが、『兎のダンス』は掲載されていません。 『童謠小曲』と『中山晋平童謠曲集』は別の物です。 <参考>『中山晋平童謠曲集』第一編~第三編 昭和九年七月発行。 第四編 昭和十二年六月発行。 「詩と曲は同時掲載」が正しい。 「発表後間もなく中山晋平によって作曲されました」の、この記載は、「ほどなく曲がつけられ」「すぐに曲にした」など表現は変えられているが、沢山の出版物に使われてしまいました。 「中山晋平 曲『童謠小曲』第七集に収録」が正しい記載。 『コドモノクニ』に、「詩と曲は同時発表」が正しい。 長田暁二・著『母と子のうた100選』と同じ間違い。 1926年 が正しい。 (項目執筆者・上笙一郎) 以上のように、このページだけでも沢山の間違いがあります。 『日本童謡事典』ですから、これを参考にして次々間違った出版物が出てしまいました。 【詩の収録】 野口雨情の第三童謠集『螢の燈台』 新潮社 1926 大正十五 年六月発行に収録。 雨情らしい、ゆかいな童謡です。 「耳に鉢巻」は、兎の長い耳は踊っている時邪魔になるので縛っておこうと思ったのでしょう。 兎が跳ねる「ラッタ ラッタ」という擬態語も他にはなく、ユニークです。 「赤靴」には、雨情の思い入れがあるようです。 『赤い靴』の詩も作っています。 【レコード】 昭和四年(1929年 、初吹き込み歌手・平井英子 ひらいひでこ 、 ピアノ伴奏は中山晋平。 レコード番号ビクター 50899-A JVE681-1 /録音年月日1929年7月29日/発売年月日1929年9月25日 10月新譜。 このレコードにより、歌、踊りの人気を独占しました。 童謡史には欠かせない曲ですが、平成十八年 「親子で歌いつごう日本の歌百選」には選ばれていません。 童謡や唱歌は、歌わなければ忘れられてしまいます。 『兎のダンス』が消えてしまいます。 レコードのデータは郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』 KKベストセ ラーズ による。 【野口雅夫の「兎のダンス」一考察】 雨情の長男雅夫は、次のような考えです。 「餅の好きだった父は、餅を焼きながらふくれたりへこんだりする餅にウサギのダンスを思い浮かべ、後の「兎のダンス」が生まれたのだと思います。 父の童謡には、教訓的なことも、特に道徳的なこともなく、のびのびとした自由な世界が広がっていたと言えるでしょう」 『太陽』日本童謡集うたのふるさと一月号新年特別号 平凡社 1973年12月発行より抜粋。 この意見は、多くの研究者に注目され、その著書に使われていますが、出典が明らかになっているものは少ない。 引用文は、出典を明らかにすべきです。 このように引用文をアレンジすると、元の作者の意図と違ってしまう。 雅夫の意見の後半 「 父の童謡には、教訓的なことも、特に道徳的なこともなく、のびのびとした自由な世界が広がっていたと言えるでしょう」は、だれも注目をしていないが、「雨情童謡」を語る重要な部分です。 【兎の童謡】 『兎のダンス』と『兎の電報』を間違えている人があるようです。 『兎の電報』は北原白秋・作詞、佐々木すぐる・作曲。 歌詞も曲も全然違うが、いずれの曲も兎が跳ねる躍動感がある。 それは、歌わなければわからない。 太鼓の響きと「sho, sho,証城寺」で歌が始まります。 さらに「tsu,tsu,月夜」や「皆出てkoi,koi,koi」なども言葉が打楽器のような感覚です。 寺も月も皆が浮かれて響き合い、にぎやかな歌になっています。 「ぽんぽこぽんのぽん」は腹鼓の音ですから当り前ですが、歌全体が腹鼓のような響きでいっぱいなのです。 「負けるな」や「来い」を重ねることにより、歌は、さらに楽しくなっていきます。 【モデルの寺は『證誠寺』】 この狸囃子には、モデルになった寺があります。 それは、千葉県木更津市富士見の浄土真宗本願寺派 護念山『證誠寺』です。 本文は、證誠寺十一代目住職・隆克朗氏からの手紙 平成十二年十月三十一日記 をもとに書きました。 これは、証誠寺の五、六代前の和尚に、昼は寺子屋をひらいて、夜は三味線を教えていた人があった。 この和尚と、狸との交友がこの謡で、「ぺんぺこぺん」は和尚の三味線の音、「どんどこどん」は狸の腹つづみの音だということだ。 雨情は民謡に興味を持っていました。 それは、「ある月夜のこと、證城寺の境内で、およそ百匹ばかりの狸が勢ぞろいして歌い踊るのに、和尚さんがつりこまれて三晩競演。 ところが四日目の夜に狸たちが来ないので見ると、腹の裂けた大狸が死んでいた」というものです。 明治三十八年十二月一日発行の『君不去 きみさらづ 』 多田屋書店・発売所 に載せました 木更津市立図書館所蔵。 奥付には、著作兼発行者は渡邊菊次郎 千葉県君津郡木更津町木更津千四百三十番地と書いてあります。 渡邊菊次郎は、松本斗吟の本名でしょう。 表紙にも松本斗吟 渡辺菊次郎 著と書いてあります。 『雜録』100ページの中のタイトルは「證城寺の狸囃」で、俚謡は「證城院のぺんぺこぺん、己等の友達やどんどこどん。 」になっています。 (註)「狸塚は、昭和四年(1929年)、木更津町南町盛年会の人たちが境内に建立しました」(證誠寺による。 この伝説の話を雨情にしたのは木更津尋常高等小学校(現・木更津市立第一小学校)の訓導の橋本林蔵(静雨)だといわれています。 静雨は、童謡や俳句を作っていました。 「静雨」とは、野口雨情にあこがれてつけたペンネームでしょうか。 橋本の名前は、『きさらつ』第七號の「最後に」という40ページの文で見る事ができます。 『きさらつ』の編集者でしょう。 <橋本林蔵(静雨)について> 橋本林蔵は明治四十五年、千葉県師範学校卒業、木更津尋常高等小学校赴任。 大正六年ごろから俳句を作りだす。 渡辺水巴に師事、大正九年、曲水木更津支社に属す。 妻の名は静。 戦前、東京杉並区役所職員として要職にあった。 昭和四十五年 1970年 二月二十日没。 註)橋本林蔵(静雨)については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方 府中市のNさん から教えていただきました(2016年7月13日)。 【野口雨情が木更津に来た日は】 雨情は手紙に書き残していました。 ・・・先月の廿一日に千葉県君津郡の郡教育会から招かれて童謡の講演に行って来ました。 ・・・」 以上から、野口雨情が木更津に来た時期は、 大正十年九月二十一日ということになります。 今までだれもこの文献に当って確定しなかった事が不思議です。 大正十年九月二十一日の東京日日新聞房総版に「童謠の講演會 廿五日木更津で」と題した予告記事があります。 「君津郡教育會第一分會木更津眞舟淸川鎌足四校の主催で來る廿五日午後一時から木更津小學校で民謠童謠の大家野口雨情、人見東明兩氏を聘し講演會を開く筈」。 童謡講演会は大正十年九月二十五日 日曜日 午後一時から。 【木更津を複数回訪れている】 雨情は、文集『きさらつ』の選者として木更津を複数回訪れている。 【『きさらつ』第七號に「證誠寺の狸囃」寄稿】 雨情は俚謡(ひなうた)を知り、それをもとにして童謡を創作しました。 そして、大正十三年十月三十一日発行の雑誌『きさらつ』第七號に、「證誠寺の狸囃」の題名で寄稿しました。 『きさらつ』は、木更津尋常高等小學校発行の雑誌です。 詩は、「證誠寺の庭は 月夜だ 月夜だ 友達來い」となっていて、「己等の友達ァ どんどこどん」という木更津の"俚謡"が詩の中に二回使われています。 寺の名前は「證誠寺」です。 詩の最後に特別な註はついていません。 (註1)木更津市立図書館より平成17年1月26日(水)FAXでの連絡によると、『きさらつ』は次のようです。 『きさらつ』については、原本が所蔵されておりませんが、複写した資料があり、確認いたしました。 (註2) 平成22年3月20日 土 、木更津市立図書館より郵便で『きさらつ』第7號を複写した資料をコピーして送ってもらいました。 私はそれを見て驚きました。 「證誠寺の萩は 月夜に 月夜に 花盛り」となっていたからです。 ワープロで打ち直すとき、間違えたと思われる「證誠寺の庭は 月夜に 月夜に 花盛り」という詩の方が、あらゆる出版物で紹介されてしまっています。 自分で確認せず、次々に写したためです。 雑誌『きさらつ』第七號 木更津尋常高等小學校発行 、大正十三年十月三十一日発行 木更津図書館所蔵 表紙 目次 奥付 【『きさらつ』第七號掲載の「證誠寺の狸囃」】 奥付の前39ページには「證誠寺の狸囃について」という題の文が掲載されています。 これは、編集者の橋本という人が書いたようです。 野口先生はこれを「金の星」の十二月號へものせたいと申されました。 そうなるといよいよこの狸囃も全国的に唄はれるやうになります。 自分の郷土の傳説ほどなつかしいものはありません。 この傳説は町の人松本斗吟さんが、世の中の開けるにつれ、ともすれば傳説が忘れられそうになるのを惜しまれて、二十年ばかり前に書き綴られておかれたのでありました。 雨情を招待した中心人物も橋本でしょう。 文からは、彼の情熱が伝わってきます。 【『金の星』大正十三年十二月号】 雨情は、大正十三年、雑誌『金の星』(金の星社)十二月号に「證城寺の狸囃」を発表。 詩は雑誌『きさらつ』第七號と同じですが、「證誠寺」の「誠」を、「城」に変えて「證城寺」としてあります。 題名の下には(傳説童謠)、詩の最後には(證城寺の狸囃は千葉縣木更津町に傳つてゐる狸の名高い囃であります)と註が書いてあります。 その話は「あの童謡を発表したとき、私が大変に叱られた話、漾さんに聞かせやしたっけかね」で始まる。 以上は、泉漾太郎著 改訂版『野口雨情回想』 筑波書林、1980年) 151ページより抜粋。 【雨情は、松本が寺の名前を変えたことにすぐに気がついた】 泉漾太郎が野口雨情から直接聞いたとするこの回想文は、読者を意識しての作り話とする研究者もあります。 しかし、證誠寺の和尚さんが立腹した話は、歌と共に知れ渡り、微笑ましいものです。 寺の名前を「證城寺」としたのは、寺側から抗議がくるであろうことを考え、現実の寺の名前と違えた方が望ましいだろうとの雨情の配慮でそうしたのでしょう。 愉快な話で、雨情ならありそうだと思えます。 私、池田小百合は、2010年3月26日に木更津市立図書館から送られて来た『君不去』のコピーを見て驚きました。 タイトルが、この時すでに「證 城寺の狸囃」になっていたからです。 雨情は、橋本から話を聞いた時は、「證誠寺」の伝説と思ったのでタイトルを「證 誠寺の狸囃」としました。 しかし、『きさらつ』掲載の後、この『君不去』を見せられ、私と同じように驚いたのではないでしょうか。 さっそく「證城寺の狸囃」に変えて『金の星』に掲載したのです。 ですから、寺の抗議にも平然と言い逃れられたのです。 【中山晋平が改作して作曲】 大正十四年、『金の星』一月号で、中山晋平が改作して作曲した歌詞と楽譜が発表されました。 改作は雨情が講演旅行中だったので、許可を取っていませんでした。 雨情は、大正十三年十二月、満鉄の招待で満洲・内蒙古を旅行していました。 晋平は、雨情が俚謡(ひなうた)をもとに創作したことを知らず、大切な言葉であった「ドンドコドン」を無視して「ぽんぽこぽんのぽん」にしたり、「證、證、證城寺」「ツ、ツ、月夜だ」と繰り返しました。 詩をよく見ると、「和尚さんに負けるな 來い、來い、來い來い來」となっています。 楽譜では六回歌うようになっています。 最後は詩も楽譜も「己等の友達ァ ぽんぽこぽんのぽん」です。 注目したいのは、改作した詩の中にも、二回「己等の友達ァ」が出ていることです。 和服のふところから曲譜の原稿を出して、「野口さんに諒解を得たいと思ったのですが、旅行中で見てもらえないのです。 止むを得ないから、そのまま持って来たんですが、しかし、しかられやしないかと思って心配で・・・」というのです。 『金の星』掲載のため、晋平に雨情の童謡『証城寺の狸ばやし』の作曲を依頼したところ、晋平は歌詞の一部を自分の作曲しやすいように直してしまったのです。 そのことを雨情に諒解を得たいのだが、旅行中のために得られないが、締切りも迫っていることであり、兎も角もそのまま持って来たというのです。 「雨情さんのことだから、事後承諾で勘弁してもらいましょうや。 」と私も言って、そのまま雑誌に載せて了ったのが今日も歌われている『証城寺の狸ばやし』です。 証、証、証城寺と、くりかえしたり。 「ポンポコポンのポン」などのハヤシ詞(ことば)はすべて晋平さんの創作です。 雨情は、無断で改作したことを一度は怒ったものの、やがて晋平の改作を容認するようになったようです。 作曲家にいわれるまま、その都合がいいように謡の方を変えている。 その厳しさはもうない。 「証、証・・・」と重ねてほしいといえば重ねるし、「月夜だ 月夜だ 友達来い」という素朴な形も、「ツ、ツ、月夜だ 皆出て来い来い来い」という、にぎやかな姿に変わっている。 由緒ある「どんどこどん」も、平俗な「ぽんぽこぽん」になってしまった。 一言一句ゆるがせにしない雨情の厳しい態度はもうここにはない。 作曲家の都合の良いようにどうとでも従っていた。 それが「ぽんぽこぽん」になり、その上「のぽん」までついてしまったのでは、もう詩人雨情のものではなくなる。 これは雨情が意図的に行なったものです。 晋平は、改作する時、その事に注意したので、雨情も容認したのでしょう。 実に見事です。 私、池田小百合は、詩を作った雨情が狸の名前を登場させずに書いた事も驚きますが、晋平が詩を見て、それに気がついて作曲したであろう事にも驚きます。 詩に深い理解が無ければできないことです。 なにか材料があるかとたづねましたら「切られ與三郎」の傳説があるとのこと。 與三郎は童謠にならないので何か他のものはとあたつてみましたら證誠寺といふ古い寺がある、この寺に昔狸が住んでゐたとのこと、時折り腹づつみを打つて付近の人を驚かしたことがわかりました。 狸とか馬とか、人形とかいふものは童謠の世界ですから、それならといふので歌を作つて作曲を中山晋平さんにお願ひしたのです。 ところがその頃、證誠寺のお坊さんにたいへんお叱りをうけてしまひました。 「詩人なんて、とんでもない出鱈目をかくもんだ、第一このお寺には狸なんかゐなかつた、それにお先祖の和尚さんが狸と一緒に踊つたなんて、馬鹿々々しい話だ、人権蹂躙の限りだ」 と罵倒されました。 地方の人々も證城寺はどこだ? とお考へになるようになりました、そのはずですあの歌の中には木更津といふ言葉が全然入つてゐないからです、また狸といふ字も入つてゐません、ですからお歌ひになる子供さんたちは證城寺がなんだか自分たちのすぐ近くにあるやうに思はれるのです、それにあの曲がすばらしくいゝのです、中山晋平さんも、もう二度と童謠の作曲ではあのまねが出來ないでせう、といつても、決して中山先生に失禮ではないと思ふ程素晴らしい曲なんです。 【最初の振付は、これだ】 『金の星』大正十四年二月号には、早々と林きむ子 の振付で「童謠舞踊 證城寺の狸囃」が4ページに渡って掲載されています。 女 の子が踊る写真入で紹介してあります。 編集・発行人の斎藤佐次郎の意気込みが うかがえます。 きっと、中山晋平が持って来た曲を見た斎藤佐次郎は、その素晴 らしさに感動し、すぐに林きむ子に振付を頼んだのでしょう。 「二月号」は、大 正十四年一月九日印刷納本 大正十四年二月一日発行なので、この曲に関して は、旅行帰りの雨情が口をはさむ間もなかったようです。 だれよりもヒットを喜 んだのは斎藤佐次郎でした。 雨情から反論されない内にヒットするようにしむけ たのは、佐次郎だったからです。 案の定、曲は踊りと共に大ヒットとなりまし た。 その後、いろいろな振付が考案されました。 大正十四年四月二十五日発行)に収録。 定価八十銭。 この本の掲載曲は、「あの町この町」「雀踊り」「木の葉のお船」「高野山」「鼠の小母さん」「證城寺の狸囃」などの六曲。 国立音楽大学図書館所蔵。 『金の星』大正十四年一月号掲載の「證城寺の狸囃」の詩は、「和尚さんに負けるな 來い、來い、來い來い來(こ)」だったのですが、収録の詩は、「來い、來い、來い來い來い」となっています。 楽譜では六回歌うようになっています。 【楽譜について】 ハ長調、四分の二拍子。 四分音符=80。 明るく楽しい曲です。 12小節のAの部分と、8小節のBの部分の二つの旋律で作られていて、実際にはABAの形で歌われます。 また、楽譜を見ると、「はぎは」の部分だけ歌詞のアクセントにそって旋律が変えてあります。 言葉のアクセントに忠実に作曲していた事がうかがえます。 前奏や間奏も、狸の腹鼓を模した、おどけた節で作られています。 これが、明るく楽しい曲にしているのです。 【さまざまな楽譜の出版】 発表後にも、さまざまな楽譜が出版されています。 <『童謡小曲』第十集では> 大正十五年四月一日刊行の中山晋平曲『童謠小曲』第十集(山野楽器店)の楽譜では、曲名が『證城寺の狸囃子』で、「 子」が入っています。 詩は、「和尚さんに負けるな」の次の「來い」が、楽譜と同じ六回続きになっています。 そして最後は「花ざかり 己等は浮かれて ポンポコポンのポン」となっています。 今までは、詩の中に「己等の友達ァ」が二回でしたが、晋平は単調な繰り返しを避けるため、二回目は「 己等は浮かれて」としたかったのでしょう。 しかし、楽譜の歌詞付けは、「ハナザカリ おいらのともだちや ポンポコポンのポン」と、これまでのままです。 編集の時に不一致が見落とされたものと思われます。 歌詞の最後には註があります。 註は次のようです。 註 證城寺といふのは上總 かずさ の木更津にある古刹 こさつ で、この寺には月夜の晩に狸が多勢浮かれ出して謠 うた つたり踊つたりするといふ傳説 でんせつ がある。 しかし、後の出版楽譜はすべて「證城寺の狸囃子」。 つまり、大正十五年四月一日刊行の中山晋平曲『童謠小曲』第十集(山野楽器店)の楽譜から「狸囃子」と「子」がつくようになった。 これは楽譜を見ればあきらかなことです。 中山卯郎編著『中山晋平作曲目録・年譜』(芸術現代社、昭和五十五年二月ニ十九日発行)にも書いてあります。 <『中山晋平童謡選曲集』第二集> 『中山晋平童謡選曲集』第二集(アポロ企画)では、楽譜の歌詞付けが「はなざかり おいらはうかれて」になっています。 やはり、晋平は「おいらはうかれて」にしたかったのです。 【レコードが発売されると大ヒットになりました】 昭和四年三月一日発売のレコードで一躍有名になりました。 (郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』 KKベストセラーズ による)。 最後は「己等は浮かれて」と歌っています。 この歌詞の変更は、中山晋平が指導したのでしょう。 一番は「己等の友達ァ ぽんぽこぽんのぽん」で、三番は「己等は浮かれて ぽんぽこぽんのぽん」です。 今も、この歌詞を使って歌う人が多い。 出版物もこの歌詞を掲載しています。 註 新しい出版楽譜のなかには、曲名が「証城寺の狸囃子」と「証」の字になっているものがあります。 これは歌碑にも見られます。 昭和二十一年の当用漢字の告示により、 證の字は法令、公文書、新聞、雑誌および一般社会を対象として使用しないこととなったからでしょう。 【平山美代子 中山梶子の歌は】 平山美代子、中山梶子が歌ったレコードがあります。 録音、発売日は不明。 伴奏は日本ビクター管弦楽団。 これも、最後は「己等は浮かれて ぽんぽこぽんのぽん」と歌っています。

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ミュージックビデオ「FIGHT THE POWER」を解説する。(前編)

僕 は 何 年 経っ たら 君 に 会 いたく なっ て 歌詞

子どもたちは、シャボン玉遊びが大好きです。 シャボン玉は、虹色にきらきら輝きながら、高く飛んで行くものもあれば、すぐにこわれてしまうものもありました。 そんな時にこの歌を歌いました。 そこには、のどかなひと時がありました。 【大きな口で、気持ちよく歌う】 一行目「SHABON-DAMA,tonda. 」は、母音が「ア」「オ」の繰り返しで、二行目「YANE made tonda. 」は、「ア」「エ」の繰り返しです。 圧倒的に「A」音が多いという特徴があります。 ですから、子どもたちが大きな口をあけて気持ちよく歌えるのです。 【亡き児への鎮魂歌か】 ところが、ある時NHKテレビの音楽番組で、作詞者の野口雨情の娘の死と『シャボン玉』の歌を結びつけ、「亡児への鎮魂歌である」という解釈が歌と共に字幕スーパーで全国に流れました。 すると、それまで楽しく歌っていた『シャボン玉』の歌は一変し、子どもの死と結びついた暗く悲しい歌となりました。 確かに歌詞に「生れて すぐに こはれて消えた」という言葉があります。 その時の愛児に対する雨情の気持ちが、この詩に込められているといわれます。 この記載は、長い間いろいろな出版物で紹介されました。 しかし、間違いでした。 雨情の四女の恒子が生まれたのは大正十年十一月十七日で、亡くなったのが大正十三年九月二十三日 合田道人著『童謡の謎』祥伝社 ですから、長田氏は疫痢で急死した「愛児」として恒子を念頭に置いていたと思われます。 ところが、『シャボン玉』の詩が発表されたのは大正十一年十一月号で、このとき恒子は存命していましたから、亡くなった愛児が恒子のはずはありません。 この記載も、長い間いろいろな出版物で紹介されました。 大正九年に亡くなった親戚の男の子とは、誰のことでしょうか。 はっきりわかっていません。 注目したいのは、いずれの著者も共通して子供は「大正九年に亡くなっている」といっている事です。 一体どうなっているのでしょう。 私を含めて一般の人は迷うばかりです。 それで、野口雨情記念館に問い合わせました。 すると、恒子の前に雨情は最初の子どもを亡くしていました。 「野口雨情記念館」の清水富光氏からの手紙によると次のようです。 「明治四十年、雨情は最初の妻・ひろ、長男・雅夫を連れて北海道に渡ります。 札幌には、七月から九月まで。 十月より小樽に移住します。 北海道小樽新聞社勤務、記者として石川啄木らと勤めますが、一カ月で退社します。 明治四十一年四月まで小樽にいました。 それには訳がありました。 明治四十一年三月十五日に妻・ひろが長女・みどりを出産しますが、三月二十三日には死亡しているためです。 その後、再び札幌に出ますが、九月には妻子を故郷に帰らせ、雨情は室蘭に去ります。 さらに旭川に移住し、明治四十二年十一月に郷里に帰っています。 雨情の略歴や残した言葉の中には、いろいろ言われているような事は、一切触れておりません」。 どうやら亡くなった娘には関係なく詩が書かれたようです。 しかし、みどりのエピソードを強調する研究者は多い。 また、『シャボン玉』に込められた鎮魂の思いは、人生をまっとうできずに死んで行く時代の子どもたちだという解釈もあります。 昔は、どこの家も貧しく、医療も今のように充実していませんでした。 多数の幼い子どもが亡くなるような厳しい風が吹かないようにとの祈りが込められた詩という解釈です。 発表の雑誌が大日本仏教コドモ会が発行していた児童雑誌『金の塔』であることが、この解釈を裏付けているようです。 【詩と曲の発表は同時か】 では、詩と曲について詳しく見てみましょう。 本物を見たいものです。 この調査のために、『雨情会々報』復刻版 金の星社 を購入しました。 昭和五十五年(1980年)十月二十五日発行の第三十一号では、宮崎の新発見にはふれられていませんでした。 以下は調査済み図書館一覧。 私、池田小百合は復刻版『金の船』を持っていますが、掲載されていませんでした。 この記述は、多くの出版物で使われてしまいました。 そもそも、何月号か書いてないのは変です。 過去の出版物に、「子どもが亡くなったのが大正九年」となっているのは、この「大正九年、雑誌『金の船』に発表された」の記述を裏付けるための作り話だったようです。 【「大正九年」は、どこに書いてあるのか】 では、「大正九年」はどこから出てきたのでしょうか。 この詩は圧倒的な支持を得て多くの出版物で使われています。 タイトルは平仮名で「しゃぼん玉」です。 「しゃぼん玉、とんだ。 ・・・」のように、句読点があります。 一連目は四行、二連目も四行、三連は二行です。 一連目と二連目が四行なのは疑問です。 【詩と曲は同時ではない】 中山晋平記念館の見解は、次のようです。 晋平は『金の塔』大正十一年十一月号を見て作曲して、楽譜を大正十二年一月発行の晋平作品集『童謠小曲』第三集で発表し、次第に広まって行った。 大正十一年から昭和九年の間に、十七集発行されています。 大正十二年一月二十五日発行の中山晋平曲『童謠小曲』第三集 山野楽器店 に「シャボン玉」のタイトルで掲載しました。 第三集の表紙絵は加藤まさをで、男の子と女の子がシャボン玉遊びをしている絵です。 男の子も、白いエプロンをしているのが印象的です。 昔の子どもたちは、楽しくシャボン玉遊びをした後は、決まって服が石鹸水でグチャグチャになり、叱られたものでした。 表紙絵は右を参照。 1 童謠小曲 2 」の 2 は間違い。 365ページの出版楽譜一覧では「童謠小曲 山野楽器 第3集 大12. 1 シャボン玉 野口雨情」となっていて、第3集が正しい。 「大12. 1 童謠小曲 2 」の間違った記載の方は、他の出版物で次々使われてしまいました。 私を含めて、一般の人は不思議に思い、中山晋平記念館に問い合わせる原因となりました。 この本の記載が違っていたため、次々出版される本が違っていたのだとわかりました。 なお、「童謠小曲 山野楽器 第3集 大12. 1 」には、野口雨情の「黄金むし」も掲載されています。 雑誌『金の塔』大正十一年十一月号に発表された詩の原題が平仮名で「しゃぼん玉」なら、なぜ雨情の『新資料』や『パンフレット』がカタカナで「シャボン玉」となっているのでしょうか? これはおかしい。 外来語はカタカナで表記するのが一般的です。 「石鹸玉」でなく「シャボン玉」にしたのが成功しています。 シャボンすなわち石鹸は織田信長がいたころ、おそらく天正年間にポルトガル人が持ち込み、以来一部の人に使われるようになり、江戸時代にかけてシャボンの名が使われましたが、明治になると「石鹸」を一般の人が使うようになったようです。 幕末のころにはシャボン玉を売る商人がいたとのことです。 戦後の二年生の音楽教科書では、教科書会社により『シャボンだま』だったり、『しゃぼんだま』となっていたりします。 カタカナは二年生になってから学習することになっているからです。 児童文学者の間では、このような当たり前のルールがなかなか徹底しません。 【 春秋社 版の検証】 小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻』 春秋社、昭和五年一月十五日発行)の歌詞及び解説のページを見て驚きました。 タイトルは「シャボン玉」で、一連は、「シャボン玉飛んだ/シャボン玉飛んだ」だったからです。 現在歌われている歌詞は「シャボン玉 飛んだ 屋根まで飛んだ」です。 楽譜の歌詞づけはそうなっていますから、誤植、印刷ミスでしょうか。 掲載楽譜は変ホ長調です。 【『童謠小曲 第三集』の「シャボン玉」は、これだ】 中山晋平 曲『童謠小曲 第三集』 山野楽器店 大正十二年一月二十五日発行。 ・タイトルは「シャボン玉」です。 ・歌詞には句読点がない。 ・二行五連からなる、ひとまとまりの作品です。 ・変ホ長調、四分の二拍子。 ・曲をつける時、一連と二連、三連と四連を対として五連で結び一曲として仕上げました。 初めの八小節の繰り返し AA と、コーダ B の四小節からなっています AABの旋律形。 それに前奏四小節と後奏四小節が付いています。 <コーダについて> コーダ=曲の終結部。 終結を完全にするための部分で、結尾ともいいます。 この曲では、最後にコーダが付けられています。 具体的には、「うまれてすぐに こわれてきえ た」でいったん終っていますが、完全に終結させるために「 かぜかぜふくな しゃぼんだまとばそ」があります。 つまり、歌詞の最後の二行をコーダにし、これで終わりですよと念をおしています。 ここが曲の山場なので強く歌います。 コーダを付けることにより広がりを持った大きな曲になりました。 コーダの威力は絶大です。 【晋平のアイディア】 「かぜかぜ ふくな」の所は、ピアノの伴奏がありません。 珍しいことですが、なぜでしょうか。 それは歌う人にテンポや表情などの表現を任せるために音を書かなかったのです。 さらりと歌ってもよいし、祈るような感情を込めて歌ってもよいのです。 晋平ならではのハイカラなアイディアです。 <おや? > 中山晋平 曲『童謠小曲 第三集』掲載の楽譜をよく見ると、「しゃぼんだま とばそ」の「しゃ ぼん」の音符の配列がおかしい。 「八分音符 八分音符」になっています。 しかも間があいている。 これは明らかに誤植です。 なぜなら先行する「かぜかぜ ふくな」と、次の「しゃぼんだま とばそ」のリズムは同じで、「タッカタタ タタタ八分休符」と考えたからです。 これが、オリジナルだとしたら非常に歌いにくい。 「タッカ」のリズムだとする解釈は不自然です。 しかし現在、全ての出版楽譜は、小松耕輔編『世界音楽全集11日本童謠曲集』 春秋社 昭和五年一月十五日発行にそろえて「タッカ」のリズムになっています。 今まで、だれも不思議に思わなかったのでしょうか? 歌ってみればすぐわかることです。 これにそろえて歌い継がれています。 三回出てくる「しゃぼんだま」は、三回とも右手の伴奏通りに「八分音符と十六分音符二つ」のリズムで歌い継がれています。 三回目だけ「タッカ」のリズムにし、さらに伴奏と歌を違うリズムに作曲したとは考えられません。 単純に、ここは伴奏と同じ「ド ドレ」、「八分音符と十六分音符二つ」と解釈するのが妥当でしょう。 メロディーは、最後なので「ドドレミソ ミレド」と、まとめました。 現在、歌い継がれている歌い方が正しい。 【教科書の扱い】 原譜は変ホ長調です。 最高音が二点変ホですから、歌うには高すぎます。 現在出版されている楽譜は、二長調またはハ長調に移調したものもあります。 しかし、いずれの調でも歌い初めの大切な音が低すぎます。 この出だしを「シャボン玉 飛んだ」 ドドドレ|ミソソ と歌う人があります。 最初は間違って歌っているのかと思いましたが、多数の人が違和感なく歌っているのを聞き、何か理由があるのではないかと思い調べてみることにしました。 昭和四十二年四月十日文部省検定済『新訂標準 音楽2 教師用指導書』(教育出版)では、ハ長調の楽譜が掲載してあり、教材解説には、次のような興味深いことが書いてあります。 「この曲は原作とちがう所が2か所ある。 」 (1)出だしが(ソ)だと音域がひろすぎて子どもたちには適さない。 しかし非常に喜んで歌う歌曲なので、出だしを ド に直して出してある。 文部省が教科書に掲載する時、直したのです。 (2)最後の「シャボン玉 飛ばそ」の「シャボン」の部分、歌譜はタッカ 付点八分音符と十六分音符 のリズムだが、伴奏譜が 八分音符と十六分音符二つ のリズムになっていて、子どもたちも、それを主旋律のように歌っているので、伴奏譜にそろえて直してある。 一方伴奏譜に歌詞をあてはめるとスムーズに歌えるから、この部分も文部省が教科書に掲載する時、直したのです。 文部省は、このように移調したり、音やリズムを変えて、教科書に掲載し、子どもたちに歌わせたことがありました。 したがって、他の曲でも、さまざまな楽譜が出版され、原曲と違う歌われ方をされてしまっています。 【歌ってみましょう】 それでは、文部省が変えて掲載した 1 2 で歌ってみましょう。 いかがでしょうか。 (1)まず、最初の「しゃぼんだま|とんだ」を ドドドレ|ミソソ と歌ってみましょう。 この方が、楽な音域と違和感のないリズムで歌えます。 小さい子どもには特に歌いやすい。 しかし、これは定着せず、晋平が書いた楽譜の通りに ソドドドレ|ミソソ で歌い継がれています。 2 次に、最後の「しゃぼんだま|とばそ」を伴奏と同じリズムで歌ってみましょう。 これは、 すでに私たちがいつも歌っている歌い方です。 三回出てくる「シャボン」のリズムは同じ方が歌いやすいのです。 伴奏に合わせて歌う方が定着しました。 耳から聞き覚え、歌いやすい歌い方で歌い継がれるのが童謡本来の姿だからです。 それでは元のものが失われ、わからなくなってしまいますから、オリジナルなものを絶対とし、それを残そうとする意見もあります。 しかし、童謡は、歌曲や合唱曲、オペラと違い、楽譜を見て歌うわけではないので、歌いにくいものや、覚えられないものは、結局歌われなくなり、忘れられてしまうのです。 このような理由で、どれほど多くの童謡が消えてしまったことでしょう。 名曲童謡とは、時代を越えて歌い継がれ、歌いやすい姿になって愛唱され続けるものなのだと思います。 【『NHK うたのえほん』の扱い】 『NHK うたのえほん 3』 日本放送出版協会 1965年7月1日発行には、以下の楽譜「しゃぼんだま」が掲載されている。 昭和四十年 1965年 代には、最初の「しゃぼんだま|とんだ」を ドドドレ|ミソソ と歌わせていたことがわかります。 この方が、小さい子どもには歌いやすい。 しかし、二小節だけ同じ曲は他にもたくさんあります。 問題にするようなことではありません。 昭和十一年に平山美代子と中山梶子の歌唱でレコードがビクターから発売され ました。 レコーディングの時、続きの二番としての詩も作られましたが、今では 歌われる事はありません。 シャボン玉 飛んだ 屋根より高く ふうわりふわり 続いて飛んだ シャボン玉いいな お空にあがる あがっていって 帰ってこない ふうわりふわり しゃぼん玉飛んだ 【子どもにも大人にも愛唱される理由】 試しにスローテンポで歌ってみてください。 もの哀しい人生の愁いの歌になります。 讃美歌というより、せつない日本民謡風に曲をまとめた晋平ならではの作風のせいといえます。 つまり、この歌には、二つの顔があるのです。 子どもが早いテンポで歌うと楽しくうれしい歌となりますが、大人がゆっくり歌うと、もの哀しい愁いの歌になるのです。 どのように歌うかは、歌う人にゆだねられます。 これが、『シャボン玉』が子どもにも大人にも愛唱される理由の一つであると思います。 私の童謡の会では、楽しいシャボン玉飛ばしの歌として元気に歌っています。 「お願い、風よ吹かないで、みんなで楽しくシャボン玉遊びをするのだから」という解釈です。 すると、「先生ご存知ですか。 この歌は子供が死んだ歌だそうですね。 歌うと悲しくて涙が出ます」などと言う人が必ず現れます。 人により解釈は様々ですが、これからも愛唱されて行くことを願っています。 子どもたちが外でシャボン玉遊びをしなくなっていますから、歌も消えてしまうのではないかと案じられます。 あなたは、最近『シャボン玉』を歌いましたか? 台座には、『シャボン玉』の楽譜が埋め込まれています。 (右の写真参照) 茨城県北茨城市磯原町磯原の「野口雨情記念館」の前庭正面には雨情がペンとノートを持った銅像があり、その右側に女の子、左側に男の子がシャボン玉遊びをしている一対の像があります。 (左の写真参照)。 また、常磐自動車道中郷サービスエリアの詩碑公園にも童謡碑とシャボン玉遊びをする子どもの像があります。 これから研究する人へ。 『金の星童謠曲譜第九輯 あの町この町』中山晋平曲 野口雨情詩 金の星社 大正十四年四月発行には「シャボン玉」は掲載されていません。 調査済み。 楽譜のように滑らかに歌う人はいない。 みんな弾んだ<ピョンコ節>で歌う。 なぜでしょう。 この不思議な歌について調べてみました。 【発表誌】 雑誌『コドモノクニ』 東京社 大正十三年 1924年)一月号に掲載。 岡本歸一挿絵。 詩のタイトルの下に 曲譜附 と書いてある。 詩と曲は同時発表。 (大阪府立中央図書館国際児童文学館所蔵、複写可)。 <初出楽譜は「おそらに」> 『コドモノクニ』大正十三年一月号に野口雨情が発表した詩の第五連は、「お空の夕べの」です。 しかし、 中山晋平が発表した楽譜は、「 おそらに ゆふべの」と変えてあります。 初出の詩は「お空の」で、初出の楽譜は「おそらに」となっている。 【天才二人の童謡】 <作詞は野口雨情> ・子供が登場しないのに子供を歌った童謡です。 女の子でしょうか。 男の子でしょうか。 ・・・雨情は、『証城寺の狸囃子』でも、「狸」という言葉を一言も出さずに成功しています。 ・ 「あの町この町」「今きたこの道」「お家」も、どこの町でしょうか。 どこへ行く道でしょうか。 お家はどこにあるのか。 ・・・この頃の雨情は、地方への童謡・民謡の普及運動に情熱を傾けていました。 家庭には留まらず、いつも「あの町この町」を旅することの多い生活でした。 『あの町この町』は、特定の町ではなく歌う人の思い描く町です。 ・帰ろうとしているはずなのに、家がだんだん遠くなっていくという部分が秀逸です。 <作曲は中山晋平> ・繰り返される「ひがくれる ひがくれる」「かえりゃんせ かえりゃんせ」は、民謡の匂いを生かした、この歌の重要な部分です。 日本人は、このような歌が大好き。 二回目は少し弱く歌うと、こだまのように余韻を残す響きとなります。 【時代的背景】 関東大震災 大正十二年九月一日 の翌年の発表。 歌にも当時の様子が反映されている。 雑誌『コドモノクニ』を発行していた 東京社 は、焼跡にバラックを建築した。 【挿絵の力】 岡本歸一が描いた挿絵が強烈な印象をあたえます。 ヒットには、この一枚の挿絵の力も大きい。 日の丸の旗を立てた家々に灯がともり、正月でにぎわう町を羽子板を小脇にはさんだ可愛い女の子が寂しく歩いています。 一月号用なのでこのような挿絵になったのでしょう。 ・・・暮れなずむ町の風景、日本人は、このような絵が大好き。 「ラララソ」が正しい。 この曲の伴奏右手は、全てメロディーラインにそって書かれているのに、ここだけ違っている。 ・三番は、「 おそらに ゆふべの」となっている。 今歌われているように直した。 【注目すべき音楽会あり】 大正十三年四月十二日 土曜日 午後一時半から、丸ノ内報知講堂に於て、「子供芸術大会」が催された。 入場料は壱円。 プログラムには、〔第一部 七、童謠のお稽古 中山晋平 1兎のダンス「コドモノクニ」五月号掲載 2あの町この町「コドモノクニ」一月号掲載〕。 音楽会では、佐藤千夜子の独唱を聴くだけでなく、雑誌、歌、踊りの宣伝が行われ、プログラムから中山晋平が集まった人たちに『兎のダンス』と『あの町この町』の歌い方を教えたことがわかります。 最後に会場全員で歌うこともしていたことがわかります。 こうして子供たちが覚えた『あの町この町』は、口から口へ伝わり、全国で歌われるようになりました。 楽譜が読めない人がほとんどの時代のことです。 ここで注目したいのは、『兎のダンス』の次に『あの町この町』を お稽古 しているところです。 『あの町この町』も、『兎のダンス』と同じように軽やかに弾んだ歌い方で覚えて帰ったと思われます。 」と書いてありますが、『あの町この町』にとっては、弾んだ歌い方の流行につながる重大な音楽会でした。 日本には昔から、<ピョンコ節>という軽やかに弾みながら歌う歌い方があり、『あの町この町』も、この歌の持つ雰囲気から、『兎のダンス』や『うさぎとかめ』のように、歌っているうちに弾みをつけて歌われていったのでしょう。 今日、私たちも聞き覚えた弾んだ歌い方で歌っています。 【ピョンコ節について】 弾みをつけて歌う歌い方は、日本独特の<ピョンコ節>といわれているものです。 ピョンコピョンコと跳ねるようなリズムでできているので明治時代には<ピョンコ節>といわれていました。 元気が出て楽しくなるリズムです。 古くは「あんたがたどこさ」「ずいずいずっころばし」のように、日本のわらべ歌や民謡に多いリズムです。 適当にピョンコピョンコと歌えばいいのです。 日本人は、<ピョンコ節>の歌が大好き。 この歌を歌う時、私たちは何の問題もなく、軽やかに弾みながら歌います。 楽譜はどのように書いてあったのでしょう。 詳しく見ましょう。 【『金の星童謠曲譜第九輯 あの町この町』に収録】 『金の星童謠曲譜第九輯 あの町この町』中山晋平曲・野口雨情詩 金の星社、大正十四年(1925年)四月二十五日発行)に収録。 野口雨情記念館、中山晋平記念館所蔵。 国立音楽大学付属図書館所蔵複写可 <詩も「お空に」に改訂> 初出の『コドモノクニ』大正十三年一月号の野口雨情の詩は、「日がくれる 日がくれる」「お空の夕の」でしたが、 『金の星童謠曲譜第九輯 あの町この町』に収録の時、「お空 に夕の」に変えました。 句読点なし。 これで、詩も楽譜と同じ「お空に」になりました。 十六分音符であるはずの所が八分音符になっている。 「ラララソ」が正しい。 第七集には「兎のダンス」も収録されている。 『童謠小曲』は一冊五十錢。 楽譜は<ピョンコ節>で歌うようには書いてありません。 ・前奏三小節目は十六分音符に訂正してあります。 これが正しい。 ・五小節目の伴奏右手部分の「ラドラソ」の誤植は、間違ったままです。 「ラララソ」が正しい。 この情報は『季刊どうよう』19号掲載、河村順子が書いた「昭和レコード童謡のあゆみ」による。 ・海沼実著『童謡 心に残る歌とその時代』 日本放送出版協会 には、「昭和三年 一九二八 年に初録音を行ったとされる平井英子の歌には、付点など付いておらず、 伴奏を担当している中山晋平も、弾みのない滑らかな伴奏をしています」と書いてあります。 このレコードは、ビクター50503-Aです。 歌は平井英子、伴奏は中山晋平で聴 く事ができ、弾みのない演奏です。 裏は「てるてる坊主」で歌は平井英子、伴奏は中山晋平。 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所蔵。 北島さんによると「平井英子は1918年1月13日生まれですから、10歳の録音ということに なります。 平井英子のレコードは33枚集まりました」。 歌は平井英子、伴奏は日本ビクターアンサンブル。 ・・・日本ビクター の8インチ盤で、Jナンバー30000番台のものは『兒童レコード』で250枚ほど出された。 そのJ-30001-Aが平井英子の「あの町この町」 裏は平山美代子の「南京ことば」 です。 」と教えていただきました。 ・ビクターレコード番号53013-A/歌は平井英子、伴奏は日本ビクター管弦楽団のレコードは小田原市在住のMさん所蔵。 このレコードは昭和九年にオーケストラ伴奏で再録音されたもののようです。 平井英子の歌は、付点がついていません。 伴奏の管弦楽団も滑らかな演奏です。 模範演奏も<ピョンコ節>ではありません。 【平井英子について】 ・大正七年 1918年 1月13日生まれ。 ・大正十五年 1926年 ニッポノホン16772「露地の細道」「てるてる坊主」は、林秀子の名前で録音。 ・昭和三年 1928年 頃、両親が離婚。 林姓から平井姓になった。 電気録音の開始とともに中山晋平に見出されてビクターに録音。 ・昭和九年(1934年)引退。 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんに教えていただきました。 【「はずみをつけて」の指定は、いつからか】 『あの町この町』は、みんなが軽やかに弾んだ<ピョンコ節>で歌い広まりました。 作曲者の中山晋平はそれに気がつき、<ピョンコ節>で歌うように「はずみをつけて」の指定をしました。 1980(昭和五十五)年二月発行の中山卯郎・編著「中山晋平作曲目録. 年譜」には、<作曲者が生前出版を計画した「中山晋平童謠名曲集」 昭和28. 6,全音楽譜出版社 では「はずみをつけて」という指定をつけた>と書いてあります。 「中山晋平記念館」によると、<楽譜に「はずみをつけて」と表記をして出版されたものは、「中山晋平童謠名曲集」 昭和28. ・前奏三小節目の誤植音符 十六分音符である所が八分音符になっていた が訂正してあります。 ・ 「このみち」「かえりゃんせ」「かえりゃんせ」の三ヶ所、伴奏右手一拍目に八分休符を入れて 弾むようにした。 中山晋平は、楽譜を手直ししている内に、昭和二十七年 1952年 十二月三十日、国立熱海病院で膵臓炎のため六十五歳で亡くなってしまった。 <『中山晋平童謠名曲集』の まえがき> 中山先生の童謠曲集を出版する計画は、先生生前中からの話題であり、一部は選曲にも着手して頂いて進行途上にあったのでありますが、旧年末、先生突然の訃報に接し、限りない悲しみと共に先生自身の選曲になる曲集編纂と言う計画は、全くかなわぬ夢となったのであります。 その後、先生の偉業を偲ぶ「中山晋平記念会」が誕生し記念として、「中山晋平全集」の刊行が企画され、全音編集部としても欣然この計画の実現に協力することになりました。 ・・・童謡曲集だけでも早く欲しいという声も各方面に強く、その要望に応えようとして編集したのがこの曲集です。 ぜひ楽譜が見たい。 研究心がそそられます。 早速、中山晋平記念館に楽譜の複写を申し込みました。 すると、以下の楽譜が送られて来ました。 メロディーラインにそった訂正になっています。 晋平は、「はずみおつけて」と書かなくても、伴奏で弾むようにすることができると考えたのでしょう。 作曲家・中山晋平の苦労の一端がうかがえます。 誤植が全て訂正され、はずむリズムが強調してあるこの楽譜が一番レベルが高い。 以上でわかるように実際には三種類の楽譜が出版されていた。 もっと別の楽譜もありそうですが、中山晋平記念館から「これ以上は記念館としましても何かご質問等ございましたら簡単で結構ですので企画書を書いて送っていただきたいと思います。 大切なものですので、あまり一般の方にはお出しできないものもあります」 2008年9月6日。 との連絡があり、迷惑をかけているようなので、ここで研究を終わりにすることにしました。 『中山晋平童謠集』第1集には、「あの町この町」 野口雨情 詩 「手のなる方へ」 野口雨情 詩 「肩たたき」 西條八十 詩 「十五夜さん」 三苫やすし 詩 「となりの小母さん」 西條八十 詩 「おみやげ三つ」 西條八十 詩 「遠めがね」 武井武雄 詩 が掲載されている。 宮尾しげを・繪、清水和歌・振付。 しかし、歌われ出すと、みんなが弾んだ<ピョンコ節>で歌いました。 晋平は悩んだ末、伴奏右手部分四ヶ所に八分休符を入れ、昭和二十四年にその楽譜を出版しました。 晋平は「はずみをつけて」を書き加えることにより、「みなさん弾んだ<ピョンコ節>で歌ってください。 そう歌っていいですよ」と言いたかったのでしょう。 ところが、楽譜の出版を前に、昭和二十七年十二月三十日に晋平は亡くなってしまいました。 亡くなった後出版された昭和二十八年版は、晋平が昭和二十四年版で訂正したにもかかわらず、五小節目の伴奏右手部分「ラドラソ」の誤植が訂正されず、そのまま出版されてしまいました。 全音編集部の責任です。 現在出版されている全ての楽譜は、誤植の入った昭和二十八年版のままなので、訂正してほしいと思います。 誤植楽譜 昭和24年版 改訂楽譜 【謎の昭和13年版の楽譜】 藍川由美著『これでいいのか、にっぽんのうた』 文春新書 平成十年発行には、『中山晋平新作童謠作曲集』 昭和13年9月 の序文が紹介してあります。 「この作曲者の言葉を目にした者だけが、たとえば<あの町この町>や<キューピーピーちゃん>の8分音符の羅列が、付点のリズムでもスウィングでもない「ピョンコ節」を指していたことを知る・・・」と。 この本で紹介している『中山晋平新作童謠作曲集』 昭和13年9月 を探しましたが、「中山晋平記念館」他、どの図書館にもありません。 重要な序文を目にする事ができません。 出版社がわからないのでさがすのは絶望的です。 「ご質問の昭和13年の作曲集はこちらにはありません」 「中山晋平記念館」からの回答2008年9月6日。 2017年4月12日、野口秀夫さんから「Googleで検索しました」というメールがとどきました。 お知らせ、ありがとうございました。 『国立国会図書館デジタルコレクション 中山晋平 新作童謡 第一編』で見ることができます。 画像データによると、表紙が3通りあります(左から順になっています)。 奥付には書名が書かれていません。 亡くなったのは数えで六十三歳。 満年齢では六十二歳 碑文は六十二歳。 詩碑は、昭和三十三年 1958年 四月二十七日建立。 この美しい見事な字は、権藤圓立書です。 左半分は説明文、最後に権藤圓立書と書いてある。 左半分の説明文は次のようです。 雨情愛用の筆と硯が納められた。 碑詩は宇都宮市街を稍離れた下野の自然豊かな羽黒山麓の地にふさわしい「あの町この町日が暮れた」が選ばれ、権藤円立氏の筆になった。 <現在の雨情旧居と詩碑と筆塚> ・旧居は、鹿沼街道の拡幅で向きを変えたが、所有者の稲毛家で保存され、有形文化財指定 平成十七年十一月十日付 として登録されている。 ・詩碑 権藤圓立書 は、敷地が二度に渡る鹿沼街道の拡幅で買収され、狭い三角地になった。 ・旧居の前庭には、宇都宮雨情会によって建立された筆塚(佐藤和三郎書)があったが、道路拡幅のために移転後の旧居脇に移動して保存されている。 昭和三十五年十月に発足した宇都宮雨情会は、今の活動は停滞している。 註 筆塚「詩人野口雨情 ここにて眠る」の左下に、宇都宮市長佐藤和三郎書と書いてある。 以上は 『詩人・野口雨情 ここにて眠る』宇都宮市明保地区明るいまちづくり協議会 平成二十八年 二〇一六年 一月 著者小島延介 による。 【野口雨情の略歴】 <生誕から最初の結婚・離婚まで> ・明治十五年 1882年 五月二十九日、茨城県多賀郡北中郷村大字磯原一〇三番地 現・北茨城市磯原町 に、父量平、母てるの長男として生まれる。 本名は英吉。 ・明治三十四年四月、東京専門学校高等予科文学科 早稲田大学の前身 に入学。 ・明治三十七年 満二十二歳 一月に、父が村長在籍中に死亡したため、故郷磯原に帰り、家督を継承するとともに、栃木県塩谷郡喜連川町 現・さくら市 の高塩家の娘ヒロ 明治十五年五月十五日生 と婚約。 ・明治三十八年 二十三歳 ヒロと結婚。 ・明治三十九年 二十四歳 長男雅夫誕生。 六月に日露戦争の勝利により樺太の南半分が日本領になったため、七月報知新聞樺太通信員として樺太に赴き、十月に上京する。 ・明治四十年 二十五歳 函館市で新聞記者として二年余流転。 妻ヒロも身重な体の上に、生れたばかりの長男雅夫を背負って雨情に付いて行く。 函館で焼け出され、札幌に居を移して石川啄木とともに小樽の小樽日報社の創業に加わって三面記事を担当するが、主幹と対立して小樽日報社を去る。 ・明治四十一年 二十六歳 小樽で長女みどり出生するが、八日後に死去。 この年、北海道新聞社など道内の新聞社勤務を転々とする。 ・明治四十二年十一月 北海道を離れ、帰郷後上京。 ・明治四十四年 二十九歳 東京有楽社に入社、『グラフィック』の編集に携わる。 六月に郷里から妻子を呼び、続いて母てるを引き取る。 八月皇太子殿下 後の大正天皇 が北海道に巡啓された際、グラフィックの報道記者として一団に加わり、北海道へ渡る。 九月母てる危篤の報に接して帰京したが、臨終に間に合わず。 十月郷里に引き揚げ、家業の植林事業に携わる。 ・大正三年 三十二歳 郷里で消防団長、磯原漁業組合長を務め、その後、入山採炭株式会社の事務員となって福島県湯本温泉 現・いわき市 の入山鉱業所へ通う。 そのころ芸者置屋の女将・明村まちに世話になる。 ・大正四年 三十三歳 五月十日妻と協議離婚届出。 ヒロは磯原の家へ二人の子 雅夫と美晴子 を置いて喜連川に帰る。 六月、二児を連れ、福島県富岡町の旅館中屋に滞在して開拓事業に携わったあと、北海道に赴く。 ・大正五年一月 ヒロ除籍。 ・大正六年 三十五歳 十月に「長子雅夫に告ぐ」一巻を手渡して家出、七月、ヒロは喜連川の実家に帰る。 事実上の離婚。 <再婚> ・大正七年 三十六歳 十月、明村まちと別れて湯本を去り、単身水戸に出て旅館兼下宿屋「対紅館」の娘で二十歳年下の中里家の 長女つる 明治三十五年十二月十二日生 と結婚、水戸市に住んで文学生活を始める。 ・大正九年 三十八歳 『金の船』の童謡欄の選者となる。 六月に上京して東京童謡会を結成。 ヒロが子供を養育するため磯原の野口家に戻り、雅夫の母として入籍する。 「」発表。 発表当時のタイトルは「十五夜お月」でした。 ・大正十年 三十九歳 「船頭小唄」を中山晋平作曲で発表。 「」発表。 十二月、「」「」を発表。 評論『童謡作法問答』や長編童話『愛の歌』を出版。 この年、民謡、童謡普及の講演旅行が多くなる。 ・大正十一年 四十歳 「」「」などを発表。 童謡、民謡の普及を目的として、権藤圓立らと結成した「楽浪園」に加わる。 註 権藤圓立は、「たなばたさま」の作詞者権藤花代の夫で、歌碑「あの町この町」は権藤圓立の筆になる。 <童心居> ・大正十三年 四十二歳 北多摩郡武蔵野村 現・武蔵野市 吉祥寺に転居。 「」「」を発表。 雨情は巣鴨から移り住んだ際に書斎を建て、応接室、安息室としても利用した。 優れた童謡、民謡がここで生まれている。 門に「童心居」と自書し、その脇に「人生は随筆である」と小書して掛けておいた。 その心は「一貫した長編でなく、随筆のごとく端的なものであると思う。 端的であるから、予めの結果を定めようとしても愚かなことである。 そう考えたとき安心もできるのである」。 ・大正十四年 四十三歳 「」「 証城寺の狸囃子 」中山晋平が改作して作曲した歌詞と楽譜が発表された。 ・大正十五年・昭和元年 四十五歳 十一月「野口廣子」の名で両親の野口量平、てる夫妻の墓碑建立。 刻字は雨情。 <旅人> 満洲 現・中国東北地方 各地に講演旅行する。 「私は旅が好きなのではない。 東京におれば苦痛なのである。 苦痛を逃れるために、旅の安息所へ出かけるのである。 」 野口雨情の言葉。 ・昭和十八年 六十一歳 五月二十五日、 雨情除籍、分家される。 七月、ヒロが野口家に復籍。 雨情二月に発病。 ・昭和十九年 六十二歳 鹿沼市に住んで足尾銅山への物資の調達などをしていた、つるの父・中里九一郎の紹介で栃木県河内郡姿川村 現・宇都宮市 鶴田一七四四番地に疎開、療養生活に入る。 疎開とはいっても、実際は戦争中に軍歌を作らなかったため、懇意にしていた主婦の友社社長が心配して軍部に追及される前に東京から逃れさせたとの説もある。 事実、雨情は親しい人に 「戦争は詩にならない」と話していた。 ・昭和二十年 1945年 一月二十七日、永眠。 享年 満 六十二。 三月に磯原の野口家墓地に分骨埋葬される。 墓碑には『野口雨情墓』 つる夫人は、昭和三十年秋に武蔵野市に引き揚げ、昭和五十五年二月二日、七十七歳で死去。 東村山市にある小平霊園に埋葬。 墓碑には『野口英吉・妻つる』。 雨情とともに眠っている。 <三男九女をもうけた> 雨情はヒロとの間に一男二女、つるとの間に二男七女、合わせて三男九女をもうけた。 明治三十七年十一月、二人とも二十二歳で結婚したヒロとの間に一男二女。 ・明治三十九年三月に長男 雅夫誕生。 ・明治四十一年三月に長女 みどり誕生。 生後八日間で死亡。 ・大正二年四月に二女 美晴子誕生。 大正四年五月にヒロとの協議離婚届を出し、ヒロはさくら市喜連川に帰ったが、大正九年九月に野口家に戻り、雅夫の母として昭和十八年七月復籍。 その年の五月に雅夫から雨情を隠居させる届と分家させる届が相次いで提出され、戸籍が全面的に組み替えられた。 この事実は昭和十八年末に、転居の準備として磯原町役場から戸籍謄本を取り寄せた際に知ることとなった。 結婚後は大正十年、東京へ出て巣鴨に住む。 王子から早稲田間を走っている都電の線路にかかるため、大正十三年三月に武蔵野市吉祥寺に新居を新築。 中里つるとの間に生まれた子供たちは新戸籍に。 カッコ 内が旧戸籍。 つるとの間に二男七女。 ・大正八年九月に長女 三女 香穂子誕生。 ・大正十年十一月 四女 恒子誕生。 十三年九月に死去のため、新戸籍には載っていない。 ・大正十四年二月に二女 五女 千穂子誕生。 ・昭和二年八月に三女 六女 美穂子誕生。 娘の名前に香穂子、千穂子、美穂子と、野口家の「野」から連想した稲穂の「穂」の字を付けた。 ・昭和五年三月に 二男 九萬男誕生。 同六年八月死去。 ・昭和六年八月に長男 三男 存彌誕生。 存彌 のぶや は、早稲田大学卒業後も、父雨情作品の解明に没頭し、膨大な資料の整理をしていたが、平成二十七年三月に脳出血で意識不明となり、十二月五日に亡くなった。 生涯独身。 存彌の正確な雨情像を伝えたいという気持ちは道半ばだった。 自身のこと兄弟姉妹のこと、母つるのこと、そして雨情の作品がつるとの二度目の結婚後に発表されていることを何よりも言いたかったのでしょう。 ・昭和八年三月に四女 七女 陽代誕生。 ・昭和十年十月に五女 八女 喜代子誕生。 ・昭和十三年六月に六女 九女 恵代誕生。 つる、四十二歳の時、雨情没。 つるは、昭和五十五年に七十七歳で死去。 つるは、雨情の二番目の妻であり、十六歳で雨情と出会ってから生涯を雨情ととともにした人で、芯の強いしっかり者。 雨情に愛されたという点では幸せであったが、野口家の籍に入ったものの、いつのまにか先妻が戻ってきて野口家を継いでいた、というような事情もあって、妻として、かたちの上からは気の毒な面もあった。 存彌の研究活動からは、母つるを磯原の野口ヒロ・雅夫一族から守るというメッセージが感じられる。 正業に就かなかった雨情が作った二つの家庭からは、おのずと雨情の印象が異なってくるのは当然だろう。 雨情はヒロ一族とつる一族がいがみ合うのは見たくなかった。 雨情は几帳面でありながら、自身に関して語った文章も少ない。 雨情は作品そのものが自己を語り、自己の歴史と考えていたとされている。 家族に縛られず、自由人でありたかった雨情は、いつまでも文学青年でいたかったに違いない。 親、妻、子に苦労を掛け、わがままを通し続けた生涯だった。 <雨情が好んだ物> 雨情の研究家で言語学者の金田一春彦は、『野口雨情民謡選』から、雨情が何を好んだかを分析している。 [植物]一番がすすき、次いで桜、菜の花、麦、笹、松、茶の木、バラ。 特色はすすきと笹といったごく地味なものにある。 菜の花、麦、茶の木などは、土の詩人といわれるゆえん。 [動物]一番がカラスで、童謡「七つの子」がある。 次いで馬、スズメ、鶏、トンボ、牛、イタチ、ツバメ、ウグイス、千鳥、ホトトギス、タニシと続く。 [天体]童謡「十五夜お月さん」「雨降りお月さん」など月が多い。 星も多いが、満天の星ではなく、一つ星なのが雨情らしい。 童謡「あの町この町」のなかの「お空に夕べの星が出る」も一つだけ出たものを詠んでいる。 [天候]雨。 雨情と号したほど。 次いで風。 人の心を全然察することなく勝手に通り過ぎて行く非常なものと捉えている。 [季節]秋、時間では断然夕方が多い。 月もからんで最も詩情を感じるのだろうか。 [場所]畑が多い。 川も多い。 人や動物に対しては、親と子を並べて歌ったものが多い。 [衣]草履や下駄に特別な愛着を持っている。 このように雨情の詩は、自分の感じた事だけを詩に書き、やさしい言葉で表わそうとしたのが特色。 したがって、子供から高齢者まで愛されている。 三十年も前、NHKで野口雨情の歌の特集をした。 黒い着物を着た歌手の森進一が歌ったのだが、暗い背景に暗い歌ばかりだった。 月、風、秋、すすき、雨・・・。 聴いている方は暗い気分になり終わったので、今でも覚えている。 以上は、『詩人・野口雨情ここにて眠る』宇都宮市明保地区明るいまちづくり協議会 平成二十八年一月 小島延介を参考にしました。 それはルールです。 に戻る 平井英子関連の 「あの町この町」 中山晋平が伴奏をして平井英子が歌っているもの。 レーベル 番号 曲 名 ビクター 50503 あの町この町、てるてる坊主 ビクター 50669 證城寺の狸囃子、かくれんぼ ビクター 50702 兵隊ゴッコ、牧場の羊の歌 ビクター 50794 ねんねんほろり、夏の雲 ビクター 50365 白頭鳥(ペタコ)、風鈴 コロムビア C18 てるてる坊主 ビクター 50899 雨降り雲、兎のダンス ニッポノホン 16772 露地の細道、てるてる坊主 (林秀子の名) ビクター 50536 雀、こんこん小狐 ビクター 50558 元日、こがねむし 平井英子関連の 歌手は平井英子 番号 曲 名 マトリッ クス番号 註 50365 (A)白頭鳥、 B 風鈴 - 刻印はレコード 番号と同じ 50365A、 50365B (以下同) 50503 (A)あの町この町、 B てるてる坊主 - 50536 (A)雀、 B こんこん小狐 - 50558 (A)元日、 B こがねむし - (註1) 50669 (A)證城寺の狸囃子、 B かくれんぼ 50、51 刻印も50、51 以下同じ 50681 (A)茶目子の一日(上)、 B 茶目子の一日(下) 77、78 50702 (A)兵隊ゴッコ、 B 牧場の羊の歌 200、201 50751 (A)蛙の夜廻り、 B 動物園で 305、306 50794 (A)夏の雲、 B ねんねんほろり 443、444 50871 (A)毬ちゃんの繪本 上)、 B 毬ちゃんの繪本 下) 611、612 50899 (A)兎のダンス、 B 雨降り雲 681、682 51027 (A)母の歌(佐藤千代子)、 (B)母を慕ふ歌(平井英子、石井亀次郎) 994 993 51071 (A)白いお耳、 B ころがりお月さん 1078、1077 51117 (A)手の鳴る方へ、 B 朝の鈴 1331、1332 51206 (A)ナイトナイトさん、 B ポチとカロ 1470、1544 51438 (A)キューピーピーちゃん、 B 肩たたき 2003、2002 51821 (A)あめふり、 B 砂山 3040、3039 52080 (A)お山の駱駝、 B 迷子の子猿 3550、3549 52114 (A)汽車汽車走れ、 B ふきあげる 3598、3599 52636 (A)かなりや、 B お客様 3842、3206 52710 (A)仔犬ヲツレテ、 B しゃれうさぎ 4952、4951 52878 (A)雨降りお月、 B 毬と殿様 5617、5618 V 40191 チンドンや、キューピーピーちゃん JVE3204、JVE2003 刻印3204、2003(註2) B 164 十五夜お月さん、雀のお宿(本多信子) 4092、4271 (註3) B 113 兎のダンス、肩たたき 281、2002 (註4) (註1) この間にマトリックス番号をきちんと表示する切り換えの時期があったのでしょう。 それまでは、レーベルと溝の間に、「白頭鳥」なら、50365Aと刻印があり、レコード番号とA、Bを刻印してあるのみ。 (註2) V40181の「キューピーピーちゃん」はマトリックス番号2003なので、51438と同録音の組み合わせを変えての再発売もの。 (註3) B164「十五夜お月さん」も再発売であることがわかります。 (註4) B113「兎のダンス」は50899A、「肩たたき」は51438Bの再発売。 「あの町この町」の児童レコードにはマトリックス番号記載なく、。 カタカナ書きの詩と曲は同時掲載。 挿絵・岡本歸一。 「コドモノクニ」大正14年11月号より 岡本歸一画 コドモノクニ 1925年11月号 表紙 岡本歸一画 裏表紙 清水良雄画 【レコード初吹き込み】 歌手・平井英子(ビクター51821 A面「あめふり」B面「砂山」)、昭和6年7月。 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんから、所有しているビクターレコード51821-Aの歌詞カードを送っていただきました。 タイトルは「あめふり」と平仮名です。 歌詞は「オムカヒ」と書いてあります。 平井英子の可愛い写真に注目。 【天気予報 今昔】 今日では、テレビのニュース番組を見ていると必ず天気予報があり、予報士がわかりやすく説明をしてくれます。 一週間の天気予報、日本だけでなく外国の天気予報もあります。 そして以前に比べて正確になりました。 昔は、空を見て自分で予測していましたので、朝晴れていても、学校が終わる頃には雨が降る事がしばしばありました。 そんな時、校門に傘と長靴を持って迎えにくる母親の姿がありました。 ほとんどの子供は、傘が欲しいと思いながらも、濡れて帰ったものです。 【急な雨降りは嬉しい】 この歌では、「アメアメ フレフレ カアサン ガ ジヤノメ デ オムカヒ ウレシイナ。 」と、母さんが迎えに来てくれる雨降りは嬉しいと白秋は書いています。 本来、だれにとっても突然降る雨は迷惑なものでしょうが、それを母親が迎えに来てくれるからかえって嬉しいもので、雨よ、もっと降れ降れという主張には、価値観を転換させる効果があります。 雨も考え方によっては悪くないものとする前向きの精神が感じられます。 【ジヤノメ】 お迎えに来てくれた母さんがさしているのは、蛇の目のように同心円をかたどった和傘の「蛇の目傘」です。 開いた時丸く見える白地の輪が、大蛇の目を思わせる事からついた名称で、竹の細い骨に水をはじく特殊な加工をした油紙を張った番傘より細く上品なものです。 今では、日常生活ではほとんど見かけなくなりました。 時折り、テレビの時代劇で見る程度ですから、今の子供には説明しても、どのような物か理解できないかもしれません。 洋傘は「こうもり傘」と呼ばれていました。 【「オムカヒ」北原白秋は】 北原白秋は、歴史的かなづかいの「オムカヒ」と書きました。 「おむかい」と読みます。 昔の日本語は、書き方と、読み方が違います。 これは東京方面の古い方言。 「おむかえ」がなまって「おむかい」になったものです。 昔、神奈川県西部地区でも「おむかい」は、使われていました。 北原白秋は、『アメフリ』を発表した大正十四年には、小田原に住んでいたので、白秋も日常使っていた言葉です。 註・北原白秋は、大正七年三月五日 小田原町御幸浜の養生館に住む。 現・小田原市本町 から、大正十五年五月一日までの八年間小田原に住んでいました。 かつて、「おむかい」を使った事のある神奈川県西部地区の人は、「オムカヒ」を、白秋の誤用や植字工の誤植と思う人はいません。 【「オムカヒ」レコード歌手は】 平山美代子、中山梶子、尾村まさ子、金森りつ子、は、「オムカヒ」と歌いました。 平井英子も、佐々川浩子も「オムカヒ」と歌いました。 こちらの資料として保存しているものは全て『オムカヒ』となっています。 後にこの曲が出版されるにあたり、子供向けの童謡だったこともあり『オムカヒ』では『お向かい』 向かい合う意味 と混乱するので、出版社の方で『おむかえ』と訂正して、だされたものがあるそうです。 【『童謠小曲』は「おむかひ」】 中山晋平『童謠小曲』第九集、「 アメフリ」「こんこん小狐」掲載。 「鶯の夢」「春が來る」「カッコ鳥」計5曲。 <第九集の奥付について> 参照 ・昭和四年 1929年 二月十日発行 国立所蔵 ・昭和七年 1932年 八月十日発行 国立所蔵 ・大阪府立中央図書館 国際児童文学館 所蔵の奥付 大正十一年 1922年 十月二十日発行。 この発行日の記載は第一集のもので、第九集の初版ではない。 大正十五年 1926年 十月十日四版 大阪所蔵)。 【春秋社版の楽譜は「おむかひ」】 小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謠曲集』(春秋社、昭和五年発行)は、「おむかひ」になっています。 【教科書は「おむかえ」】 『改訂版しょうがくせいのおんがく2』 音楽之友社 昭和三十三年発行では、「おむかえ」「あとからいこいこ」「やなぎのねもとで」に変えて掲載しました。 文部省は方言の「オムカヒ」を標準語の「おむかえ」に変えて教科書に掲載し、全国の学校で教えたので、ここから子供たちは「おむかえ」と歌いだしました。 ですから、楽譜によっては「おむかい」のものや、「おむかえ」のものがあるのです。 近年、「おむかえ お迎え 」で歌われる事が多くなっています。 文部省が学校教育で標準語を教えた結果、「おむかい」は死語になったからです。 時代が進み、もう、だれも使っていません。 幼い子供に『<お迎い>は<お迎え>のなまりで、れっきとした日本語。 「おむかえ」と歌うのは誤り。 「おむかい」と歌うのです』という指導者がいたとしても、通用しません。 みんなが「おむかえ」と歌います。 童謡は時代の生き物です。 この歌は、「おむかえ」と歌われ、これから先も、愛唱され続けて行くことでしょう。 註・オリジナルを追求したコンサートやCDでは初出のまま「おむかい」と歌われています 「行く」は、童謡では「ゆく」、文部省唱歌では「いく」の発音が一般的です。 『改訂版しょうがくせいのおんがく2』 音楽之友社 昭和三十三年発行では、「あとからいこいこ」と変えて掲載しました。 文部省唱歌の考えから「いこいこ」にしたのです。 誤りではありませんが、この歌は童謡なので、「ユコユコ」のまま掲載してほしかった。 歌われているのは「ユコユコ」の方です。 「ヤナギ ノ ネカタデ」の「ネカタ 根方 」は、二年生にもわかるように、「ねもと 根元 」にしたのでしょう。 「根方」は「根元」の意味ですが、このように歌詞を変えると、みんなで集まって歌う時、混乱が生じます。 「ヤナギ ノ ネカタデ」のまま掲載してほしかった。 歌われているのは「ネカタ」の方です。 「根方」という言葉は、あまり使われなくなりましたが意味は通じます。 【柳の根方で泣いているのは誰? 】 「柳の根方で泣いている」のは、男の子でしょうか? 女の子でしょうか? <考察1 歌詞を見る> 歌詞の中には、傘を貸した子の性別がはっきりとは書いてありません。 ヒントになる部分は、わずかに「あらあら あの子は ずぶぬれだ」「柳の根方で 泣いている」「キミキミ この傘 さしたまえ」です。 まず、男の子だとしたらどうでしょうか? 昔は、男の子は人前で泣いてはいけないと教育されました。 男の子なら、たとえずぶぬれになっても、雨の中を走って帰ったことでしょう。 雨ごときで泣いている男の子というのは考えにくい情景のように思われます。 これが女の子だったら、ずぶぬれになってしまって泣いているのも理解できます。 「キミキミ コノカサ サシタマへ」という表現は、現在は子供同士では使わないでしょう。 中村幸弘編著『読んで楽しい日本の童謡』 右文書院 には、次のように書いてあります。 「キミ」という呼びかけは大正時代、男の子にも女の子にも用いられたと思います。 自分の傘を貸してしまった僕は、母さんの大きな蛇の目傘に一緒に入ります。 蛇の目傘の大きさは、母さんのあたたかさでもあります。 安心して甘えられます。 迎えに来てもらった事が嬉しかったのですが、思いがけず嬉しさが二倍になりました。 母さんが迎えに来てくれたことと、傘を貸したことで、ちょっぴり優越感にひたっている得意げな僕を母さんが見守っています。 母さんの優しいまなざしが伝わってくる歌です。 歌からそのぬくもりが感じられます。 <考察2 挿絵を見る> 初出の『コドモノクニ』 東京社 大正十四年十一月号の挿絵は、男の子に傘を貸しています。 挿絵を描いた岡本歸一がそのように解釈したからです。 この頃は、楽譜が読める人は少なく、童謡は絵本の挿絵から入るのが普通でした。 したがって編集の方も挿絵に力を入れ、優れた挿絵画家が次々出ました。 当時人気の岡本歸一の挿絵で「男の子に傘を貸す」場面を見た人々は、雨に濡れて泣いていたのは「男の子」と思い込んでしまったことでしょう。 岡本の挿絵では男の子は二人とも洋装で肩掛けカバンです。 北原白秋の詩集『太陽と木銃』(昭和十八年発行、フタバ書院成光館)の「雨ふり」の挿絵は石井了介画で、洋装でランドセルの男の子が、着物で肩掛けカバンの男の子に傘を貸そうとしています。 遠景のひとつ傘の女子二人はランドセル、半ズボンの男子は肩掛けカバンに描かれています。 「コドモノクニ」大正14年11月号より 岡本歸一画 白秋『太陽と木銃』石井了介画 川上四郎の挿絵も男の子に傘を貸しています(昭和十二年、1937年.講談社の絵本『童謠画集』所収)。 男の子が共にランドセルを背負っています。 もとの詩の「カバン」は岡本帰一の挿絵にあるような肩掛けカバンを意味しているはずです。 ランドセルは戦前までは、どちらかといえば都会型の商品とされ、地方では教科書やノートを風呂敷に包んで通学するのが一般的でした。 全国的にランドセルが普及したのは昭和三十年代以降です。 ランドセルを背負った「女の子」が木の下で泣いている絵です。 絵の作者は不明。 1961年7月1日刊 音羽ゆりかご会監修『日本の童謡・唱歌絵本』 主婦と生活社 平成元年発行に掲載されている「あめふり」の絵も「女の子」に傘を貸した後の絵です。 挿絵は森泰章。 泣いているのは女の子で、男の子も女の子も肩掛けカバンです。 宮崎駿監督のアニメ映画『となりのトトロ』(1988)では、カン太がお地蔵さんのところで雨宿りしているサツキに傘を貸す場面があります。 カン太は転校生のサツキが気になりますが、男の子のプライドから声をかけることができません。 逆にベーと嫌がるしぐさをしたりしています。 この映画の背景は昭和30年代の後半で、普通の家には電話もテレビもない時代です。 小学校高学年の少年が女の子に軽々しく口をきくようなことは軽挙妄動としてはばかられるような雰囲気がありました。 梅雨時の突然のどしゃ降りで、サツキと妹のメイはお地蔵さんのところで雨宿りをしています。 そこへ通りがかったカン太は自分がさしていた黒い大きなボロ傘をメイに差し出すのですがこのときカン太はサツキを「キミ」と呼びはしません。 「ん!」というだけです。 サツキが受け取っていいものかどうか迷っていると、再びカン太は傘を差しだしますが、このときもただ「ん!」というだけです。 サツキが傘を受け取らないので、カン太はその場へ傘を置き、自分はズブ濡れ覚悟で雨の中を走って帰ります。 サツキたちはこの傘をさして家に帰り、夕方父親を迎えにバス停に行くついでにカン太の家に立ち寄り、傘を返しますが、この時点でカン太は母親に女の子に傘を貸したことを言っておらず、「学校に忘れた」と言い張っています。 母親は雨が降っているのに傘を忘れるなんてありえない、おおかた遊んで壊してしまったに違いないとカン太を叱ります。 女の子に傘を貸すなんて優しい行動を取る自分が恥ずかしくて親には言えないというのが男の子のプライドなのです。 これが、小学校の低学年の男の子なら女の子に傘を貸すことも恥ずかしくはなかったでしょう。 主人公の男の子の年齢も画家によって微妙にちがって設定されています。 時代を反映しているのでしょう。 大正・昭和の初めは「男の子」に傘を貸す絵で、近年は「女の子」に傘を貸す挿絵が多いようです。 歌詞には「男の子」か「女の子」か書いてありませんから、歌う人が自由に解釈できる余地が残っているようです。 【僕の心の嬉しいリズム】 詩は、曲をつけることを考慮し整っています。 全体にリズムがあるので曲はつけやすかったと思われます。 「カケマシヨ カバン ヲ カアサンノ」は、特に韻をふんでいてリズミカルです。 雨でも、お母さんが迎えに来てくれるので、楽しいという歌です。 その向うに温かい家庭がうかがえます。 各節の締め括りに繰り返し出てくる「ピツチピツチ チヤツプチヤツプ ランランラン」という雨が跳ねる音が、詩全体を明るく弾んだものにしています。 「ボク」の嬉しい心が「アメ」と一緒に踊っているようです。 白秋と晋平の才能が光っています。 しかし、手持ちのSPは、すべて「オムカヒ」と歌っています。 「僕ならいいんだ 母さんの大きな蛇目に入ってく」となっていて、僕の行動がよく分かります。 では、二番の詩はどうでしょうか。 「かけましょ鞄を 母さんの後からゆこゆこ 鐘が鳴る」 「カケマショ カバン ヲ」子供が自分の肩掛けカバンを掛けて、「カアサンノ アトカラ ユコユコ」お母さんの後からついて行くようすです。 「カアサンノ カバン ヲ カケマショ」と語順転置されているわけではありません。 二番で注目したいのは、韻をふんでいるリズムです。 「カケマシヨ」「カバンヲ」「カアサンノ」そして「カネガナル」でまとめてあります。 このページの記載は、私が小さかった頃に高齢の方々が「おむかい」と言う言葉を日常会話の中で使っていたのを思い出して到達した結論です。 私は、小田原市近郊の足柄上郡に住んでいます。 これを利用される場合は、「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と出典を明記してください。 それはルールです。 【発表誌】 雑誌『コドモノクニ』 東京社 四巻二号 お正月臨時号/大正十四年 1925年 一月二日発行 に掲載。 「 雨降りお月さん 」の詩のタイトルの下に 曲譜附 と書いてある。 詩と曲は同時掲載。 挿絵は岡本帰一。 大正十四年は大正期童謠のピークでした。 『コドモノクニ』は、一月に「四巻一号 一月号」大正十四年一月一日発行と、「四巻二号 お正月臨時号」大正十四年一月二日発行の二冊を出した。 特に、野口雨情はこの時期次々と童謠を発表し活躍している。 詩と楽譜のタイトルは『雨降りお月さん』。 歌手の平井英子は「だれ」「おんま」と歌いました。 「お馬」を「おんま」と歌うのは童謡の一般的な歌い方です。 晋平は、どの子供にもわかりやすく、気軽に歌えるようにとの考えから「だれとゆく」にしたのでしょうが、初出詩のように「たれとゆく」と歌うと、美しい響きになります。 【「雨」と「月」を愛した雨情】 雨情は、「雨」と「月」に対して特別な思いがあったようです。 「雨情」という号は、中国の古文の中にある「雲根雨情」からとったもので、「春雨がしとしと降る優しさ」という意味です。 「雨」が好きで、特に春雨が好きでした。 さらに「月」も好きで、雨情の孫の不二子さんによると、「雨情は、月に特別の親しみを感じていたようです。 月光は、万物を平等に照らすでしょう。 そのへんが気に入っていたようで。 野口家では、代々三日月に柏手を打って感謝とお願いごとをする風習があり、今も私はそれをやっています」。 」・・・「月は無限のありがたみがある。 想像の蔵なんでやんすよ。 お月さまは、光といっしょに物語を放っていらっしゃる。 お月さまの光は、子どもの心なんだよ。 【詩の考察】 このような雨情の「雨」と「月」に寄せる思いをふまえて『雨降りお月さん』の詩を見ると、雲の蔭で見えないお月さんが、お嫁に行く時にはどうして行くのだろうという、月を擬人化した詩と解釈できるでしょう。 シャラシャラ シャンシャンと鈴の音が空に響くようです。 大好きな美しい月を花嫁にしたいという雨情のせつない気持ちが伝わってきます。 現実には、最初の妻の輿入れが背景にあったと言われています。 【ひろとの結婚事情】 雨情の生家は、かつて水戸徳川家藩主の御休息所で「観海亭」と称され、「磯原御殿」とも言われた名家で、家業は廻船業を営んでいました。 明治三十七年一月、雨情二十二歳の時、父量平が村長在職中に亡くなったので、帰郷し、家督を継ぐと共に高塩ひろと結婚しました。 盛大な結婚式だったようです。 「野口雨情記念館」によると、輿入れの日は、明治三十七年十一月で、日にちはさだかではなく、戸籍にも記載されていないそうです。 不二子さんが、子どもの頃おばあさん 雨情夫人・ひろ から聞いた話では、輿入れの日は、あいにくの雨で、栃木県塩谷郡喜連川から馬に乗り、濡れて二日もかかって野口家までやって来ました。 白無垢姿の花嫁は、百日紅の木がある門をくぐり、出迎えた雨情と初めての対面をしました。 この文には間違いがある。 『輿入 こしい れの日が雨でねえ、 栃木県 塩谷郡喜連川 しおやぐんきつれがわ から馬に乗り、びしょ濡れになって、二日もかかって・・・』と。 雨情もきっと、この時の模様を思い浮かべて詩をつづったと思います」『歌をたずねて』 毎日新聞学芸部編 によると、いまも野口雨情の生家に住む孫の野口不二子 ふじこ が、『雨降りお月』のエピソードをこう話したという。 つる夫人が北茨城の野口家に嫁いだのは大正七年 一九一八年)のこと。 いまでは、そんな風習もすたれてしまつたが、『雨降りお月』の歌の世界が、そうした昔をしのばせてくれる。 雨情夫人ひろ が正しい。 「ひろ夫人が北茨城の野口家に嫁いだのは明治三十七年十一月」が正しい。 この間違った「つる」の記載は、その後、多くの研究者が使い、失敗を繰り返しています。 雨情もきっとこの時の模様を心に思い浮かべて詩をつづったと思います」と不二子さん。 『NHK日本のうた ふるさとのうた100曲』 講談社 の編者「日本のうた ふるさとのうた」全国実行委員会が、読者にわかりやすくと、加筆したものだとわかりました。 間違ったものを加筆してしまいました。 生活は貧しく、豪華な結婚式ができるような状況ではなかった。 【つゞきの曲】 『雲の蔭』は、雑誌『コドモノクニ』 東京社 大正十四年三月号で発表 されました。 『雨降りお月さん』が好評だったので、続きとして作ったものです。 また、奥付の説明「お母様方のために」にも、次のように書いてあります。 あれと一緒にしてお唄ひ下さると面白さも一入(ひとしお)だと信じます。 挿絵は岡本歸一。 雑誌『コドモノクニ』 大正十四年三月号 装丁 岡本歸一 【『雲の蔭』はこれだ】 「コドモノクニ」大正14年3月号より 原画 岡本歸一) 【「明ける」「明けよ」歌唱の考察】 『コドモノクニ』に発表した『雲の蔭』の雨情の詩は「夜が明ける」で、晋平の楽譜は「よがあーけーよぅ」になっています。 晋平が、明るい響きの歌詞に変えて作曲したものです。 「るー」と「よー」では一字違うだけですが、歌ってみると、その違いがはっきりわかります。 大正十五年四月出版の中山晋平 曲『童謠小曲』第八集 山野楽器店 に収録の『雲の蔭』の楽譜は『コドモノクニ』と同じです。 前記レコード・歌手の平井英子は「夜が明けよ」と歌いました。 【晋平苦心の作】 全体がタタタンタンのリズムでできていて、馬の歩みを表現しているようです。 中山晋平は、二曲とも同じメロディーで歌えるようにしたいと考えました。 しかし、歌詞のアクセントが異なるので合いません。 そこで、 『雲の蔭』は所々高低を変えて変奏曲のように仕上げました。 晋平苦心の作品です。 しかし、『雲の蔭』は実際にはなかなかうまく歌えません。 苦心して変奏曲のように仕上げたことで、かえって歌いにくくしてしまったことに、晋平は気付いていませんでした。 【「雨降りお月」は、これだ】 中山晋平曲『 童謠小曲 』 第八集 山野楽器店 大正十五年 1926年 四月十日 発行 に収録。 歌詞・楽譜のタイトルは「 雨降りお月 」です。 と添え書き がある。 『雨ふりお月』は『雨降りお月』の誤植でしょう。 『コドモノクニ』に発表した『雨降りお月さん』の楽譜は「だれとゆく」になっていましたが、『童謠小曲』第八集も「だれとゆく」のままです。 しかし、ここで晋平は 伴奏譜の前奏と後奏を華やかなものに書きかえました。 中間部の伴奏も少しリズムがかえてあります シンコペーションのリズムにした。 この楽譜で歌ってほしいのです。 書きかえた楽譜の曲名は改題され『雨降りお月』に なっています。 そのため以後の出版楽譜のタイトル名は『雨降りお月』なのです。 この改訂楽譜『雨降りお月』を元にアレンジされレコーディングされた レコードの曲名は『雨降りお月~雲の蔭』 です。 <レコード情報> 曲名は『雨降りお月~雲の蔭』 ・ビクターレコード番号 50898 昭和四年(1929年)10月発売 歌手は佐藤千夜子。 中山卯郎著『中山晋平作品目録年譜』(豆の樹社)による)。 一つは『コドモノクニ』に掲載した楽譜で、曲名は『雨降りお月さん』。 もう一つは書き直して『童謠小曲』第八集で発表した楽譜で、曲名は『雨降りお月』。 これではっきりしたと思いますが、楽譜の曲名が『雨降りお月さん』では、初出の『コドモノクニ』の楽譜をさします。 現在、初出の『雨降りお月さん』の楽譜は出版されていません。 出版されているのは晋平が書き直した『雨降りお月』の楽譜の方です。 その楽譜にしたがって演奏されるので、曲名は『雨降りお月』です。 まず、『雲の蔭』の楽譜は、『コドモノクニ』と『童謠小曲』と同じです。 「よがあーけーよぅ」の部分も同じ。 晋平は、後から作曲した『雲の蔭』の後奏五小節を、たいへん気に入りました (左図参照)。 その五小節は、ピアノ伴奏右手部分に、オクターブのスタカートで弾く上昇進行や、シンコペーションのリズム、アルペッジョが使ってある。 そしてフェルマータがある。 このフェルマータは晋平会心の作。 きっと、気に入っていた。 そこで自分の曲譜集『童謠小曲』第八集に収録の時、『コドモノクニ』に掲載した『雨降りお月さん』の歌い出し前五小節を、この『雲の蔭』の後奏五小節と同じに書きかえ フェルマータは省略、二ヶ所和音を変更、オクターブ記号の位置も移動 、華やかな曲に仕上げ、曲名を『雨降りお月』にしました。 『コドモノクニ』の 『雨降りお月さん』 前奏。 二段目の五小節 に注目 『童謠小曲』の 『雨降りお月』 前奏。 二段目の五小節 が華やかに変化 さらに、『コドモノクニ』に掲載した『雨降りお月さん』では、「後奏が四小節」でしたが、『雨降りお月』の「後奏も同じ五小節」を使って華やかにしました。 『コドモノクニ』 の『雨降りお月さん』 の後奏四小節 『童謠小曲』の 『雨降りお月』の 後奏五小節 華やかになっている。 『雲の蔭』の後奏 五小節とほぼ同じ つまり、『雲の蔭』の出だしには前奏がありませんが、『雨降りお月』の「後奏五小節」が『雲の蔭』の前奏になるのです。 一つの作品として続けて歌うのです。 このように、『コドモノクニ』に発表した楽譜『雨降りお月さん』とは、異なるので、初出の楽譜と区別するために、曲名を変更して『雨降りお月』としたのです。 改作前の初出の『雨降りお月さん』の楽譜は、単純でレベルが低い。 晋平が、この『雨降りお月』の楽譜を、作詞者の野口雨情に見せ、前奏と後奏、その他書きかえた部分の複雑な説明をして、改題の了承を得ているとは思えません。 しかし・・・」と書き、『雨降りお月』のタイトルで全ての楽譜が出版され、同タイトルで佐藤千夜子のレコードが出て歌われている事に不思議がり、不満を述べている。 これは、雑誌『コドモノクニ』の『雨降りお月さん』の楽譜と、『童謠小曲』第八集の『雨降りお月』の楽譜を比べて見ていないからです。 童謡の論文を書く時、詩人雨情の方側からしか見ていないのは、片手落ちです。 しかし、藤田圭雄が書いた不思議がり、不満を述べている文章は、驚く事に全部正しい。 「・・・つまり、大正十五年四月、 『童謡小曲8』に収録する時、中山晋平が勝手に「雨降りお月」とし、それがそのままレコード界では正しい題名のようにいいつがれて来ているので、 野口雨情本人とは関係のないことのようだ。 」とある。 これは間違い。 掲載楽譜は『童謠小曲』第八集のものなので、正しい曲名は『雨降りお月』。 さらに、1番の下に2番として『雲の蔭』の歌詞が書いてある。 これも間違い。 次のページに『雲の蔭』の楽譜を続いて掲載するのが正しい。 湯山昭・中田喜直・阪田寛夫・藤田圭雄監修なのに誰もミスに気付かなかった。 「1番の下に2番として『雲の蔭』の歌詞が書いてある。 」という間違いは、多くの出版楽譜で見かけます。 歌ってみれば、すぐわかることです。 【二曲まとめた雨情と晋平】 ・ 野口雨情は、二曲まとめて題名を『雨降りお月さん』とし、 童謠集『螢の燈台』 新潮社 大正十五年六月発行に収録しました。 一 二 となっていて、二 には初出にあった『雲の蔭』のタイトル文字はありません。 一の詩は「誰 たれ とゆく」で、二の詩は「夜が明ける」。 最初に発表した雑誌『コドモノクニ』の 詩と同じです。 ・ 中山晋平 曲『童謠小曲』第八集収録の楽譜は、『雨降りお月』と『雲の蔭』という曲名のついた別々の楽譜です。 ただし、『雨降りお月』に続いて次のページに『雲の蔭』が掲載してあり、一つの作品として続いて歌うようになっています。 これが「一つの作品に併合」の意味です。 「後にふたつあわせて「雨降りお月」という詞が完成しました」の「雨降りお月」は間違い。 二つあわせた詩のタイトルは「雨降りお月さん」。 【後記】 この『雨降りお月さん』『雲の蔭』の項目は、多くの方に見ていただき、 「納得した」「すっきりした」という声をいただきました。 よりわかりやすくするために、説明に楽譜を付け、岡本帰一の美しい挿絵も、カラーで紹介することにしました。 いかがでしょうか 2010年9月20日。 【さらに調査】 2013年2月12日、厚木市立中央図書館で『東京朝日新聞縮刷版』昭和二年(1927年 8-11月を調査。 「雲のかげ」というタイトルで 獨唱 で歌われていた。 ラヂオ番組表の下には、歌詞も掲載されている。 合唱と獨唱 『木の葉のお船』 合唱 かへるつばめは木の葉のお舟。 ネ、波にゆられりや。 お舟はゆれるネ、サゆれるネ。 舟がゆれれば燕もゆれるネ。 「舟」は間違い。 「船」が正しい。 「かへるつばめは」は間違い。 「歸る燕は」が正しい。 「燕」は漢字。 「 お馬よ」「お袖 で」「雲の 蔭」が正しい。 読売新聞の昭和二年(1927年)八月二十四日、朝刊9ページには、もっと詳しく書いてあります。 六曲とも歌詞が掲載してありました。 「燕はかへるネ」が正しい。 「 ちよいと見たりや」「お袖 で」が正しい。 ありがとうございました(2013年12月5日)。 (註II)同じ日の同じ番組の紹介でも、新聞により異なる事がわかりました。 新聞記事は詳しく正確に書いて欲しいと思います。 歌唱の音符はタッカタッカのはずむリズムです。 通巻号数3巻5号。 岡本帰一/画。 色刷りのページには詩のみが掲載され、別の箇所に曲譜 1ページ が付いている。 詩と曲は同時掲載。 『コドモノクニ』は、大阪国際児童文学館で閲覧できます。 これは間違い。 この絵は『童謠小曲』第七集の加藤まさをが描いた表紙の絵。 「岡本歸一が描いた四匹の兎が踊っている絵がページを飾った」が正しい。 【音楽会でのあつかい】 大正十三年四月十二日 土曜日 午後一時半から、丸ノ内報知講堂に於て、「子供芸術大会」が催された。 入場料は壱円。 プログラムには、〔第一部 七、童謠のお稽古 中山晋平 1兎のダンス「コドモノクニ」五月号掲載 2あの町この町「コドモノクニ」一月号掲載〕。 とあり、〔第二部 四、舞踊 兎のダンス「コドモノクニ」五月号掲載 藤間 社中〕となっています。 プログラムから、中山晋平が集まった人たちに『兎のダンス』との歌い方を教えたことがわかります。 また、藤間 社中が踊りを披露しています。 これにより、みんなが歌や踊りを覚えて帰り、それは口から口へ伝わって全国に広まりました。 歌も踊りも大人気となりました。 楽譜が読めない人がほとんどの時代のことです。 【曲の収録】 ・中山晋平曲『童謠小曲』第七集 山野楽器店 一九二六 大正十五 年四月十日発行に収録。 加藤まさを/装画。 兎と女の子が跳ねて踊っている『兎のダンス』が表紙になっている。 この曲集の表紙は1-12集は加藤まさを、13-17集は竹久夢二が装幀しました。 第七集には『あの町この町』も掲載されている。 『童謠小曲』は一冊五十銭(池田小百合所蔵、勉強のためなら公開可)。 童謠小曲 第7集 加藤まさを装画 大正15年4月 「兎のダンス」が表紙 になっている。 この冊子は水彩に よる手彩色である。 裏表紙は兎が月を見ているとこ ろ。 月は淡い黄色で半分弱だけ 描かれている。 手彩色なので 一冊一冊微妙に色が異なる。 「童謠小曲」第7集より 下も同じ) 「童謠小曲」第7集より ・『中山晋平童謠曲集』第二編 東京 新興音樂出版社 昭和九年発行の表紙は、兎が横笛を吹いている絵 「ひろし」のサインがある ですが、『兎のダンス』は掲載されていません。 『童謠小曲』と『中山晋平童謠曲集』は別の物です。 <参考>『中山晋平童謠曲集』第一編~第三編 昭和九年七月発行。 第四編 昭和十二年六月発行。 「詩と曲は同時掲載」が正しい。 「発表後間もなく中山晋平によって作曲されました」の、この記載は、「ほどなく曲がつけられ」「すぐに曲にした」など表現は変えられているが、沢山の出版物に使われてしまいました。 「中山晋平 曲『童謠小曲』第七集に収録」が正しい記載。 『コドモノクニ』に、「詩と曲は同時発表」が正しい。 長田暁二・著『母と子のうた100選』と同じ間違い。 1926年 が正しい。 (項目執筆者・上笙一郎) 以上のように、このページだけでも沢山の間違いがあります。 『日本童謡事典』ですから、これを参考にして次々間違った出版物が出てしまいました。 【詩の収録】 野口雨情の第三童謠集『螢の燈台』 新潮社 1926 大正十五 年六月発行に収録。 雨情らしい、ゆかいな童謡です。 「耳に鉢巻」は、兎の長い耳は踊っている時邪魔になるので縛っておこうと思ったのでしょう。 兎が跳ねる「ラッタ ラッタ」という擬態語も他にはなく、ユニークです。 「赤靴」には、雨情の思い入れがあるようです。 『赤い靴』の詩も作っています。 【レコード】 昭和四年(1929年 、初吹き込み歌手・平井英子 ひらいひでこ 、 ピアノ伴奏は中山晋平。 レコード番号ビクター 50899-A JVE681-1 /録音年月日1929年7月29日/発売年月日1929年9月25日 10月新譜。 このレコードにより、歌、踊りの人気を独占しました。 童謡史には欠かせない曲ですが、平成十八年 「親子で歌いつごう日本の歌百選」には選ばれていません。 童謡や唱歌は、歌わなければ忘れられてしまいます。 『兎のダンス』が消えてしまいます。 レコードのデータは郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』 KKベストセ ラーズ による。 【野口雅夫の「兎のダンス」一考察】 雨情の長男雅夫は、次のような考えです。 「餅の好きだった父は、餅を焼きながらふくれたりへこんだりする餅にウサギのダンスを思い浮かべ、後の「兎のダンス」が生まれたのだと思います。 父の童謡には、教訓的なことも、特に道徳的なこともなく、のびのびとした自由な世界が広がっていたと言えるでしょう」 『太陽』日本童謡集うたのふるさと一月号新年特別号 平凡社 1973年12月発行より抜粋。 この意見は、多くの研究者に注目され、その著書に使われていますが、出典が明らかになっているものは少ない。 引用文は、出典を明らかにすべきです。 このように引用文をアレンジすると、元の作者の意図と違ってしまう。 雅夫の意見の後半 「 父の童謡には、教訓的なことも、特に道徳的なこともなく、のびのびとした自由な世界が広がっていたと言えるでしょう」は、だれも注目をしていないが、「雨情童謡」を語る重要な部分です。 【兎の童謡】 『兎のダンス』と『兎の電報』を間違えている人があるようです。 『兎の電報』は北原白秋・作詞、佐々木すぐる・作曲。 歌詞も曲も全然違うが、いずれの曲も兎が跳ねる躍動感がある。 それは、歌わなければわからない。 太鼓の響きと「sho, sho,証城寺」で歌が始まります。 さらに「tsu,tsu,月夜」や「皆出てkoi,koi,koi」なども言葉が打楽器のような感覚です。 寺も月も皆が浮かれて響き合い、にぎやかな歌になっています。 「ぽんぽこぽんのぽん」は腹鼓の音ですから当り前ですが、歌全体が腹鼓のような響きでいっぱいなのです。 「負けるな」や「来い」を重ねることにより、歌は、さらに楽しくなっていきます。 【モデルの寺は『證誠寺』】 この狸囃子には、モデルになった寺があります。 それは、千葉県木更津市富士見の浄土真宗本願寺派 護念山『證誠寺』です。 本文は、證誠寺十一代目住職・隆克朗氏からの手紙 平成十二年十月三十一日記 をもとに書きました。 これは、証誠寺の五、六代前の和尚に、昼は寺子屋をひらいて、夜は三味線を教えていた人があった。 この和尚と、狸との交友がこの謡で、「ぺんぺこぺん」は和尚の三味線の音、「どんどこどん」は狸の腹つづみの音だということだ。 雨情は民謡に興味を持っていました。 それは、「ある月夜のこと、證城寺の境内で、およそ百匹ばかりの狸が勢ぞろいして歌い踊るのに、和尚さんがつりこまれて三晩競演。 ところが四日目の夜に狸たちが来ないので見ると、腹の裂けた大狸が死んでいた」というものです。 明治三十八年十二月一日発行の『君不去 きみさらづ 』 多田屋書店・発売所 に載せました 木更津市立図書館所蔵。 奥付には、著作兼発行者は渡邊菊次郎 千葉県君津郡木更津町木更津千四百三十番地と書いてあります。 渡邊菊次郎は、松本斗吟の本名でしょう。 表紙にも松本斗吟 渡辺菊次郎 著と書いてあります。 『雜録』100ページの中のタイトルは「證城寺の狸囃」で、俚謡は「證城院のぺんぺこぺん、己等の友達やどんどこどん。 」になっています。 (註)「狸塚は、昭和四年(1929年)、木更津町南町盛年会の人たちが境内に建立しました」(證誠寺による。 この伝説の話を雨情にしたのは木更津尋常高等小学校(現・木更津市立第一小学校)の訓導の橋本林蔵(静雨)だといわれています。 静雨は、童謡や俳句を作っていました。 「静雨」とは、野口雨情にあこがれてつけたペンネームでしょうか。 橋本の名前は、『きさらつ』第七號の「最後に」という40ページの文で見る事ができます。 『きさらつ』の編集者でしょう。 <橋本林蔵(静雨)について> 橋本林蔵は明治四十五年、千葉県師範学校卒業、木更津尋常高等小学校赴任。 大正六年ごろから俳句を作りだす。 渡辺水巴に師事、大正九年、曲水木更津支社に属す。 妻の名は静。 戦前、東京杉並区役所職員として要職にあった。 昭和四十五年 1970年 二月二十日没。 註)橋本林蔵(静雨)については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方 府中市のNさん から教えていただきました(2016年7月13日)。 【野口雨情が木更津に来た日は】 雨情は手紙に書き残していました。 ・・・先月の廿一日に千葉県君津郡の郡教育会から招かれて童謡の講演に行って来ました。 ・・・」 以上から、野口雨情が木更津に来た時期は、 大正十年九月二十一日ということになります。 今までだれもこの文献に当って確定しなかった事が不思議です。 大正十年九月二十一日の東京日日新聞房総版に「童謠の講演會 廿五日木更津で」と題した予告記事があります。 「君津郡教育會第一分會木更津眞舟淸川鎌足四校の主催で來る廿五日午後一時から木更津小學校で民謠童謠の大家野口雨情、人見東明兩氏を聘し講演會を開く筈」。 童謡講演会は大正十年九月二十五日 日曜日 午後一時から。 【木更津を複数回訪れている】 雨情は、文集『きさらつ』の選者として木更津を複数回訪れている。 【『きさらつ』第七號に「證誠寺の狸囃」寄稿】 雨情は俚謡(ひなうた)を知り、それをもとにして童謡を創作しました。 そして、大正十三年十月三十一日発行の雑誌『きさらつ』第七號に、「證誠寺の狸囃」の題名で寄稿しました。 『きさらつ』は、木更津尋常高等小學校発行の雑誌です。 詩は、「證誠寺の庭は 月夜だ 月夜だ 友達來い」となっていて、「己等の友達ァ どんどこどん」という木更津の"俚謡"が詩の中に二回使われています。 寺の名前は「證誠寺」です。 詩の最後に特別な註はついていません。 (註1)木更津市立図書館より平成17年1月26日(水)FAXでの連絡によると、『きさらつ』は次のようです。 『きさらつ』については、原本が所蔵されておりませんが、複写した資料があり、確認いたしました。 (註2) 平成22年3月20日 土 、木更津市立図書館より郵便で『きさらつ』第7號を複写した資料をコピーして送ってもらいました。 私はそれを見て驚きました。 「證誠寺の萩は 月夜に 月夜に 花盛り」となっていたからです。 ワープロで打ち直すとき、間違えたと思われる「證誠寺の庭は 月夜に 月夜に 花盛り」という詩の方が、あらゆる出版物で紹介されてしまっています。 自分で確認せず、次々に写したためです。 雑誌『きさらつ』第七號 木更津尋常高等小學校発行 、大正十三年十月三十一日発行 木更津図書館所蔵 表紙 目次 奥付 【『きさらつ』第七號掲載の「證誠寺の狸囃」】 奥付の前39ページには「證誠寺の狸囃について」という題の文が掲載されています。 これは、編集者の橋本という人が書いたようです。 野口先生はこれを「金の星」の十二月號へものせたいと申されました。 そうなるといよいよこの狸囃も全国的に唄はれるやうになります。 自分の郷土の傳説ほどなつかしいものはありません。 この傳説は町の人松本斗吟さんが、世の中の開けるにつれ、ともすれば傳説が忘れられそうになるのを惜しまれて、二十年ばかり前に書き綴られておかれたのでありました。 雨情を招待した中心人物も橋本でしょう。 文からは、彼の情熱が伝わってきます。 【『金の星』大正十三年十二月号】 雨情は、大正十三年、雑誌『金の星』(金の星社)十二月号に「證城寺の狸囃」を発表。 詩は雑誌『きさらつ』第七號と同じですが、「證誠寺」の「誠」を、「城」に変えて「證城寺」としてあります。 題名の下には(傳説童謠)、詩の最後には(證城寺の狸囃は千葉縣木更津町に傳つてゐる狸の名高い囃であります)と註が書いてあります。 その話は「あの童謡を発表したとき、私が大変に叱られた話、漾さんに聞かせやしたっけかね」で始まる。 以上は、泉漾太郎著 改訂版『野口雨情回想』 筑波書林、1980年) 151ページより抜粋。 【雨情は、松本が寺の名前を変えたことにすぐに気がついた】 泉漾太郎が野口雨情から直接聞いたとするこの回想文は、読者を意識しての作り話とする研究者もあります。 しかし、證誠寺の和尚さんが立腹した話は、歌と共に知れ渡り、微笑ましいものです。 寺の名前を「證城寺」としたのは、寺側から抗議がくるであろうことを考え、現実の寺の名前と違えた方が望ましいだろうとの雨情の配慮でそうしたのでしょう。 愉快な話で、雨情ならありそうだと思えます。 私、池田小百合は、2010年3月26日に木更津市立図書館から送られて来た『君不去』のコピーを見て驚きました。 タイトルが、この時すでに「證 城寺の狸囃」になっていたからです。 雨情は、橋本から話を聞いた時は、「證誠寺」の伝説と思ったのでタイトルを「證 誠寺の狸囃」としました。 しかし、『きさらつ』掲載の後、この『君不去』を見せられ、私と同じように驚いたのではないでしょうか。 さっそく「證城寺の狸囃」に変えて『金の星』に掲載したのです。 ですから、寺の抗議にも平然と言い逃れられたのです。 【中山晋平が改作して作曲】 大正十四年、『金の星』一月号で、中山晋平が改作して作曲した歌詞と楽譜が発表されました。 改作は雨情が講演旅行中だったので、許可を取っていませんでした。 雨情は、大正十三年十二月、満鉄の招待で満洲・内蒙古を旅行していました。 晋平は、雨情が俚謡(ひなうた)をもとに創作したことを知らず、大切な言葉であった「ドンドコドン」を無視して「ぽんぽこぽんのぽん」にしたり、「證、證、證城寺」「ツ、ツ、月夜だ」と繰り返しました。 詩をよく見ると、「和尚さんに負けるな 來い、來い、來い來い來」となっています。 楽譜では六回歌うようになっています。 最後は詩も楽譜も「己等の友達ァ ぽんぽこぽんのぽん」です。 注目したいのは、改作した詩の中にも、二回「己等の友達ァ」が出ていることです。 和服のふところから曲譜の原稿を出して、「野口さんに諒解を得たいと思ったのですが、旅行中で見てもらえないのです。 止むを得ないから、そのまま持って来たんですが、しかし、しかられやしないかと思って心配で・・・」というのです。 『金の星』掲載のため、晋平に雨情の童謡『証城寺の狸ばやし』の作曲を依頼したところ、晋平は歌詞の一部を自分の作曲しやすいように直してしまったのです。 そのことを雨情に諒解を得たいのだが、旅行中のために得られないが、締切りも迫っていることであり、兎も角もそのまま持って来たというのです。 「雨情さんのことだから、事後承諾で勘弁してもらいましょうや。 」と私も言って、そのまま雑誌に載せて了ったのが今日も歌われている『証城寺の狸ばやし』です。 証、証、証城寺と、くりかえしたり。 「ポンポコポンのポン」などのハヤシ詞(ことば)はすべて晋平さんの創作です。 雨情は、無断で改作したことを一度は怒ったものの、やがて晋平の改作を容認するようになったようです。 作曲家にいわれるまま、その都合がいいように謡の方を変えている。 その厳しさはもうない。 「証、証・・・」と重ねてほしいといえば重ねるし、「月夜だ 月夜だ 友達来い」という素朴な形も、「ツ、ツ、月夜だ 皆出て来い来い来い」という、にぎやかな姿に変わっている。 由緒ある「どんどこどん」も、平俗な「ぽんぽこぽん」になってしまった。 一言一句ゆるがせにしない雨情の厳しい態度はもうここにはない。 作曲家の都合の良いようにどうとでも従っていた。 それが「ぽんぽこぽん」になり、その上「のぽん」までついてしまったのでは、もう詩人雨情のものではなくなる。 これは雨情が意図的に行なったものです。 晋平は、改作する時、その事に注意したので、雨情も容認したのでしょう。 実に見事です。 私、池田小百合は、詩を作った雨情が狸の名前を登場させずに書いた事も驚きますが、晋平が詩を見て、それに気がついて作曲したであろう事にも驚きます。 詩に深い理解が無ければできないことです。 なにか材料があるかとたづねましたら「切られ與三郎」の傳説があるとのこと。 與三郎は童謠にならないので何か他のものはとあたつてみましたら證誠寺といふ古い寺がある、この寺に昔狸が住んでゐたとのこと、時折り腹づつみを打つて付近の人を驚かしたことがわかりました。 狸とか馬とか、人形とかいふものは童謠の世界ですから、それならといふので歌を作つて作曲を中山晋平さんにお願ひしたのです。 ところがその頃、證誠寺のお坊さんにたいへんお叱りをうけてしまひました。 「詩人なんて、とんでもない出鱈目をかくもんだ、第一このお寺には狸なんかゐなかつた、それにお先祖の和尚さんが狸と一緒に踊つたなんて、馬鹿々々しい話だ、人権蹂躙の限りだ」 と罵倒されました。 地方の人々も證城寺はどこだ? とお考へになるようになりました、そのはずですあの歌の中には木更津といふ言葉が全然入つてゐないからです、また狸といふ字も入つてゐません、ですからお歌ひになる子供さんたちは證城寺がなんだか自分たちのすぐ近くにあるやうに思はれるのです、それにあの曲がすばらしくいゝのです、中山晋平さんも、もう二度と童謠の作曲ではあのまねが出來ないでせう、といつても、決して中山先生に失禮ではないと思ふ程素晴らしい曲なんです。 【最初の振付は、これだ】 『金の星』大正十四年二月号には、早々と林きむ子 の振付で「童謠舞踊 證城寺の狸囃」が4ページに渡って掲載されています。 女 の子が踊る写真入で紹介してあります。 編集・発行人の斎藤佐次郎の意気込みが うかがえます。 きっと、中山晋平が持って来た曲を見た斎藤佐次郎は、その素晴 らしさに感動し、すぐに林きむ子に振付を頼んだのでしょう。 「二月号」は、大 正十四年一月九日印刷納本 大正十四年二月一日発行なので、この曲に関して は、旅行帰りの雨情が口をはさむ間もなかったようです。 だれよりもヒットを喜 んだのは斎藤佐次郎でした。 雨情から反論されない内にヒットするようにしむけ たのは、佐次郎だったからです。 案の定、曲は踊りと共に大ヒットとなりまし た。 その後、いろいろな振付が考案されました。 大正十四年四月二十五日発行)に収録。 定価八十銭。 この本の掲載曲は、「あの町この町」「雀踊り」「木の葉のお船」「高野山」「鼠の小母さん」「證城寺の狸囃」などの六曲。 国立音楽大学図書館所蔵。 『金の星』大正十四年一月号掲載の「證城寺の狸囃」の詩は、「和尚さんに負けるな 來い、來い、來い來い來(こ)」だったのですが、収録の詩は、「來い、來い、來い來い來い」となっています。 楽譜では六回歌うようになっています。 【楽譜について】 ハ長調、四分の二拍子。 四分音符=80。 明るく楽しい曲です。 12小節のAの部分と、8小節のBの部分の二つの旋律で作られていて、実際にはABAの形で歌われます。 また、楽譜を見ると、「はぎは」の部分だけ歌詞のアクセントにそって旋律が変えてあります。 言葉のアクセントに忠実に作曲していた事がうかがえます。 前奏や間奏も、狸の腹鼓を模した、おどけた節で作られています。 これが、明るく楽しい曲にしているのです。 【さまざまな楽譜の出版】 発表後にも、さまざまな楽譜が出版されています。 <『童謡小曲』第十集では> 大正十五年四月一日刊行の中山晋平曲『童謠小曲』第十集(山野楽器店)の楽譜では、曲名が『證城寺の狸囃子』で、「 子」が入っています。 詩は、「和尚さんに負けるな」の次の「來い」が、楽譜と同じ六回続きになっています。 そして最後は「花ざかり 己等は浮かれて ポンポコポンのポン」となっています。 今までは、詩の中に「己等の友達ァ」が二回でしたが、晋平は単調な繰り返しを避けるため、二回目は「 己等は浮かれて」としたかったのでしょう。 しかし、楽譜の歌詞付けは、「ハナザカリ おいらのともだちや ポンポコポンのポン」と、これまでのままです。 編集の時に不一致が見落とされたものと思われます。 歌詞の最後には註があります。 註は次のようです。 註 證城寺といふのは上總 かずさ の木更津にある古刹 こさつ で、この寺には月夜の晩に狸が多勢浮かれ出して謠 うた つたり踊つたりするといふ傳説 でんせつ がある。 しかし、後の出版楽譜はすべて「證城寺の狸囃子」。 つまり、大正十五年四月一日刊行の中山晋平曲『童謠小曲』第十集(山野楽器店)の楽譜から「狸囃子」と「子」がつくようになった。 これは楽譜を見ればあきらかなことです。 中山卯郎編著『中山晋平作曲目録・年譜』(芸術現代社、昭和五十五年二月ニ十九日発行)にも書いてあります。 <『中山晋平童謡選曲集』第二集> 『中山晋平童謡選曲集』第二集(アポロ企画)では、楽譜の歌詞付けが「はなざかり おいらはうかれて」になっています。 やはり、晋平は「おいらはうかれて」にしたかったのです。 【レコードが発売されると大ヒットになりました】 昭和四年三月一日発売のレコードで一躍有名になりました。 (郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』 KKベストセラーズ による)。 最後は「己等は浮かれて」と歌っています。 この歌詞の変更は、中山晋平が指導したのでしょう。 一番は「己等の友達ァ ぽんぽこぽんのぽん」で、三番は「己等は浮かれて ぽんぽこぽんのぽん」です。 今も、この歌詞を使って歌う人が多い。 出版物もこの歌詞を掲載しています。 註 新しい出版楽譜のなかには、曲名が「証城寺の狸囃子」と「証」の字になっているものがあります。 これは歌碑にも見られます。 昭和二十一年の当用漢字の告示により、 證の字は法令、公文書、新聞、雑誌および一般社会を対象として使用しないこととなったからでしょう。 【平山美代子 中山梶子の歌は】 平山美代子、中山梶子が歌ったレコードがあります。 録音、発売日は不明。 伴奏は日本ビクター管弦楽団。 これも、最後は「己等は浮かれて ぽんぽこぽんのぽん」と歌っています。

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あいみょんの歌詞一覧リスト

僕 は 何 年 経っ たら 君 に 会 いたく なっ て 歌詞

作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一、 唄:竹山逸郎・藤原亮子 1 男 白樺ゆれる 高原に りんどう咲いて 恋を知る 男の胸の 切なさを 啼け啼け山鳩 幾声も 2 女 夜霧の駅に 待つ君の おもかげ強く ふり捨てて はかなや月に 泣き濡れし 白衣の袖よ いつ乾く 3 男 人目も草も 枯れ柳 恨みも恋も 散る宵に ふとまた逢えば 増す想い 未練か夜も 眠られず 4 男女 幾春秋 (いくはるあき)を さまよえど まことのえにし 結ぶ日は 月よりの使者 想い出の りんどう抱いて 来るという 《蛇足》 昭和24年(1949) の大映映画『月よりの使者』の主題歌。 映画は加戸敏監督で、主演は上原謙と花柳小菊。 原作は、久米正雄が昭和8年(1933) に『婦人倶楽部』に連載した同名の小説。 この小説は、3回映画化されています。 最初は昭和9年(1934) の入江たか子・高田稔主演による入江プロ・新興キネマ作品で、モノクロの無声映画でした。 2回目がこの加戸敏作品(モノクロ) で、3回目は同じく大映が昭和29年(1954) に作ったカラー映画です。 主演は山本富士子と菅原謙二で、ほかに若尾文子、根上淳、船越英二などが出演しました。 話は、信州・富士見高原療養所で働く美貌の看護婦・野々口道子と患者の弘田進との恋愛物語です。 さまざまな波乱を経て、二人は結ばれることになります。 同じ療養所の患者・橋田という哲学者も、道子に恋していますが、受け入れられないのに絶望し、次のような詩を残して自殺してしまいます。 我は蔭の国へ行く 永 (とこし)への月の光を求めて 君は月よりの使者 地上にては余りに麗しく 余りに又冷たかりしも 今は仄 (ほの)かながら、遂にわがもの 我その微 (かす)かなる光を抱きて行く なお、富士見高原療養所は、堀辰雄の小説『風立ちぬ』や『菜穂子』の舞台となったところです。 右の写真は旧富士見高原療養所。 モデルになった矢野綾子はここで没しました。 (二木紘三) 昭和30年代、私はこの高原療養所の近くの中学校を卒業しました。 その頃の高原はまだ石ころのだらけの道でした。 牛車も馬車も荷物を運んでいました。 丘を越えたその療養所の中を友達と道草しながら帰ることもありました。 白樺林の印象の強かった病院も、今は舗装道路でつながり、白樺も道脇に並木を残すのみとなりました。 母親の口ずさんでいた「月よりの使者」の歌詞はいまでもひとりでに流れでてきます。 療養所を下ったところには中央線最高点の富士見駅があります。 高校に通うようになった私にとって駅までの道は白い煙を上げて坂を上ってくる蒸気機関車との競争でした。 走馬灯のように思い出は浮かんできます。 ほろ苦い初恋の淡き思いと重なってこのメロディが流れてきます。 二木先生、思い出をありがとうございます。 投稿: aki 2008年3月17日 月 20時28分 太平洋戦争が始まった時期『この戦争は負ける』と言って憲兵に引っ張られそうになったと言う父は、全財産を物品に変えて四国の田舎に荷物と共に疎開していました。 その父も応召した留守中に、その疎開先に1トン爆弾が直撃しました。 その瞬間から一家の赤貧の生活が始まりました。 昭和27年当時、私は小学3年生でしたが、まだまだ敗戦の影が色濃く残っているころでした。 我が家では新聞も配達されていなかったと思います。 勿論、書籍など購入する余裕もなくラジオすらもなく、知識や情報吸収は人からの口伝や、学校でしかえられない時代でした。 向こうに見える山をひとつ越えるとどんな世界があるのかも分からない時代でした。 今から考えると当時私は知識欲に餓えていたように思います。 そんなある日、物置の中で、当時では目にしたことのない上質紙を使った表紙のないボロボロの本を見つけました。 巻頭、巻末の何ページかはなくなっていて残っているページから読み始めましたが、何がなんだかよくわからないが、非常に心惹かれるものがあり、読めない漢字が出てくるたびに、母親や姉に聞いてむさぼり読みました。 毎日のように、『これはなんと読む?』と聞いているうちに『何を読んでいるのか?子供の読む本ではない』と、取り上げられてしまいましたが、わからないまま読み進んだその内容は強烈な感動と疑問(未知)を残しました。 私が読み進んだ部分はサナトリュウムでの一大恋愛絵巻の部分です。 男女間の恋愛感情と言うものがまったく理解できず、別世界のことなのか、大人になったら分かることなのか、あるいは、世の中にはこう言う人種がいるのか・・・。 ともかく、強烈な男女間の心の動き=好きという感情、一方で一緒に居たいはずなのに自ら離れていこうとする不思議さ、揺れ動く心・・・。 はたまた、恋敵の登場・・・。 到底、小学校3年生の私には理解できない世界でしたが、『大人になれば分かる男女間の感情か?』と言う疑問を残したまま、強烈な印象を幼心に残したことは確かです。 その本のタイトルが『月よりの使者』であったことは、映画の宣伝文句で後に知りました。 男の病がよくなり、実家に帰るその日、駅で待ち合わせて男に同行する約束だった女が、男の乗った列車をサナトリュウムの丘から一人静かに見送る・・・、その情景は、今となっては本の内容で自ら描いた情景か、あるいは映画の宣伝ポスターなどで知らされた情景かは定かでありませんが私の心の中に一枚の絵として、今でも残っています。 丘の上の白樺の幹に手を添えて立つ女・・・、はるかその眼下を煙を残して、去っていく男を乗せた小さな列車・・・。 「男・女」の表現は今ではちょっと抵抗感がありますが、当時の私の感情では男と女しかありませんでした) 映画は見ていません(お金もなかったし、たぶん小学生が一人では映画館に入れなかったと思う)。 今となっては、曲すらも聴かれなくなりました。 又、67歳と言う老人の部類に入り、惚れた腫れたの世界は遠の昔に卒業済ですが、二木先生のこの歌物語で、当時の戸惑いと困惑、衝撃の強烈な印象が、一服の絵と共に今でも鮮明に蘇ります。 投稿: はとちゃん 2009年11月22日 日 18時00分 高原の旅愁、 私たちの頃よりもう少し上の方の時代の歌になりますが、 清純で、心洗われる哀愁に満ちた歌で、目に留まれば、 いつも聞いております。 もう何年も前、NHKでした、元従軍看護婦のリクエストで 伊藤久雄が歌っていました。 そのいきさつを聞き、心打たれ、戦争の最中にも歌が心を癒し、人の心と心を繋げてくれる、これは忘れることの出来ない歌になりました。 戦時中は、彼も戦意高揚の歌を歌っていたということで、戦後はその批判を受けることになったと聞いておりますが、ステージを立ち去る時、会場に来ていたリクエストの看護婦に目線を合わせ、一礼をして立ち去りました。 戦争は人の心を奪います。 今は良い時代になりました。 良い歌の数々をご紹介頂き、どうもありがとうございました。 投稿: 2010年4月16日 金 22時25分 40数年前、郷里北九州門司にあった結核病院で草取りのアルバイトをしました。 それから茨城県に就職のため出て来ましたが、入った独身寮の隣に塀を挟んで結核病棟がありました。 そのころにはもう本来の目的のためには使われていなかったようですが。 「結核」という恐い病気は、まだ身近に感じられました。 歌のメロディは何となく知っていましたが、「月よりの使者」という題名は最近懐メロを探すようになってから知りました。 最初は、「月光仮面」のことかなあなどととんでもないことを想像しましたが、二木先生の「蛇足」、皆様のコメントを読ませていただいて、恥じ入っております。 メロディそのままのロマンティックな曲なのですね。 投稿: 竹永尚義 2011年3月 9日 水 05時38分 過日3月13日の「長野日報」に旧富士見高原療養所資料館々長の荒川さんが結核予防全国大会で特別講演をなさるという記事がありました。 大会はホテル椿山荘で18,19の両日開かれ、演題は「高原のサナトリウムと文学者たちの足跡」。 記事には経営難に奮闘した所長の正木不如丘をはじめ、つねに支援を続けた文芸春秋の菊池寛、小説「月よりの使者」の作者・久米正雄、作家・藤沢恒夫などが出てくる。 この小説によって富士見高原療養所が広く世間に知られることになり、映画化、主題歌によってその名は更に高まったと云われる。 現在はJA長野厚生連・富士見高原医療センター・富士見高原病院として総合病院になっている。 投稿: sonehara 2013年3月19日 火 17時59分 月よりの使者・・・どなたかもおっしゃっていましたが、頭に思い浮かぶのは月光仮面か、かぐや姫です。 往年のファンの方から叱られそうですが、団塊の最後の世代としてはそういうほかないです。 曲は父母が聞いていましたから覚えがありました。 白樺の美しい信州の高原、陽光の明るい鎌倉の海、やさしい看護婦、二枚目の患者、犠牲になる自殺者、こんなお膳立てが当時の人々の涙を絞ったのか~と考えます。 今の人間はこの筋立てには、あまりリアリティを感じないでしょうね。 昔の人の方が映画を見て、素直に泣いた、泣くことができたという意味でうらやましい。 はとちゃんさまの、むさぼるようにこの小説を読んだ体験、おもしろいです。 まだ大人の読み物よと、まわりからたしなめながらも、漢字の意味をききながら読み進める。 後で、その小説の全体像がなんとなくわかってくる。 本を読むという幼い頃の体験で、似たような記憶があります。 投稿: 浮舟 2013年3月19日 火 20時22分 能勢の赤ひげ様 このたびのカミさんの入院・手術のことでは、能勢の赤ひげ(Dr.N)様のきちんとした見立てと格別な計らいで無事に終え、心から感謝しています。 既に、能勢の赤ひげ先生とは懇意にさせて頂き、個人メールなどでやりとりをしていますので、私信めいたコメントはさけたいと思っていましたが、この「歌ものがたり」を通じての恩恵ですので、敢えてコメントさせて頂きました。 皆様へ さて、ここからが皆様へのコメントとなります。 ここ3日間、病院通いを続けていますが、里山好きの私は敢えて 自宅から約1時間少しで行ける高速道路を避けて、2時間近くも掛かる里山を抜けて地道を走りました。 大阪最北端の能勢町は、周囲を山に囲われ 今なお里山の風情の残る長閑な町ですが、そこを抜けてずっと続く北摂の風情豊かな山間の田舎道の なんと素晴らしいこと! city boyをもって自認する??私にとって、この田舎道は、一瞬 病院通いの憂鬱さを吹き飛ばしてくれる癒しのロードでした。 丹波地方の山懐に抱かれるようにして広がる田んぼ一面に水を張り、トラクターのような稲植え機が忙しそうに・・ 車窓を吹き抜ける心地よい涼風、なにげなく道端に咲いてる山野草、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ 春の七草と、記憶回路を一杯に拡げて夢見心地・・・突如目に入った「福住伝統的建造物群保存地区」の立て看板、見れば、懐かしい茅葺き屋根の農家群落、よし!帰りに寄り道して行こう!と、まるでカミさんの見舞いのことなどすっ飛んでしまったかのよう・・・。 抜群の環境のなか、白衣の天使たちに囲まれ、日に日に持ち前の優しさと 明るい笑顔を取り戻してきたカミさんの姿に接して、ほっとしながら密かに 帰りのロマン路のことに想いを馳せる不届きな亭主を神様はどう思っておられるでしょう? それにしても、さすがに往復5時間の運転が3日連続すると疲れます。 今日は、お休みです。 投稿: あこがれ 2018年5月18日 金 14時42分.

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