ソ連 アフガニスタン 侵攻。 ソ連のアフガニスタン侵攻/アフガニスタン撤退

ソ連のアフガニスタン侵攻/アフガニスタン撤退

ソ連 アフガニスタン 侵攻

はじめに RYOです 皆さんは現在の「ロシア連邦」はその前身となる「ソヴィエト社会主義共和国連邦 (=ソ連)」から出来た国ということは知っていますか? 今回はその「ソ連」は一体どんな国だったのかをまとめようと思います。 ソ連についての基礎知識 まずはソ連の基礎知識です。 いつできた?いつ終わった? ソ連は、1922年12月に成立し1991年12月に消滅しました。 ソ連崩壊と共に15か国の国家が誕生しました! ソ連の広大な領土 そもそもソ連とは一つの国ではありません。 15個の共和国で構成された連邦なんです。 ロシア• ウクライナ• ベラルーシ• モルドヴァ• ジョージア• アゼルバイジャン• アルメニア• カザフスタン• トルクメニスタン• ウズベキスタン• タジキスタン• キルギス• リトアニア• ラトヴィア• ロシア「てめーら、 カラスは白い よな?」 他14ヵ国「は、はい!ロシアさんがそう言うなら。 カラスは白いです」 という状態でした。 もう少し詳しいことは後で。 1917年3月にロマノフ王朝終了(三月革命) ピョートル大帝から始まったロマノフ王朝 1613年からずっとロシアを支配してきましたが、1905年の日露戦争では事実上敗北し、国力に余裕も無いのに調子に乗って1914年の第一時世界大戦にも参加。 何故かと言うと、我々が一般的に使っている暦は「グレゴリオ暦」、しかしロシアが使っているのは「ユリウス暦」で、暦上で呼び方にずれが生じるからです。 ですのでどちらの立場から見るかで二月革命なのか三月革命なのかが変わります。 ぼくは世界の標準的なグレゴリオ暦を尊重して、 三月革命としています。 二重権力状態発生 ロマノフ王朝が倒されたちょっと前に、ロシアでは2つの権力が出現しました。 それが ソヴィエトと 臨時政府です。 ロシアはまだ第一次世界大戦の真っ最中、『ソヴィエト』と『臨時政府』はそれぞれ 正反対の方針を示していました。 第一時世界大戦で特に血を流した二者(労働者と兵士)が結託して ソヴィエトを作りました。 なぜなら初めは ソヴィエトも新しくできた臨時政府が戦争を止めることを期待していたからです。 それに ソヴィエトは政権運営などのノウハウも乏しかったので、そういう意味でも臨時政府に期待していました。 しかし臨時政府がロシア帝国時代の方針を引き継いで戦争継続を望んだため、ロシア国民の間には圧倒的な不信感が広がります。 ボリシェビキ レーニンが所属していた「 多少手荒なことをしても結果的に国が平和になるならそれでいい」という独裁的な考えを持っていた政党。 ロシア語で「多数派」を意味する。 メンシェビキ 「 国民みんなで話し合ってちゃんと順序立てて国を徐々に良くしていこう」という穏健的な考えを持っていた政党。 ロシア語で「少数派」を意味する。 と理解しています。 十一月革命で臨時政府を倒す レーニンは 三月革命後、一度フィンランドに亡命しながらも何とか臨時政府を倒して 十一月革命 十月革命 を成功させました。 その後、 ソヴィエト政権の樹立を宣言! 人民委員会議 国会みたいなもの を設置し、レーニンがその議長となりました。 この人民委員会議長というのは、他国で言えば大統領兼首相であり、国家元首みたいなもの。 つまりレーニンがロシアのトップに。 親友のトロツキーを外交委員 外務大臣 に就けました。 1918年11月に第一時世界大戦終結が終わり、ロシア国内ではレーニンのロシア共産党に不満を持つ資本家たちが「反革命軍」を結成して内戦状態になっていました。 大戦の戦勝国も社会主義国の台頭を恐れて、反革命軍を支援していました。 焦ったレーニンは、全工業を国有化してあらゆる経済活動を国家が管理するように。 これにより 後でも書きますが 農民の生産意欲が薄れ、深刻な食糧不足に。 しかしレーニンは反革命軍を制圧し、ある程度自由な経済活動を認め、国内は再び落ち着きを取り戻しました。 って事で レーニンがソ連を作りました!!!! ソ連誕生後、 ロシア共産党は ソ連共産党に名前を変更 スターリンが後継者に ソ連成立から2年後にレーニンが死去、その後レーニンの親友のトロツキーと争って勝ち、ソ連共産党の主導権を握ったのが「大粛清」で有名な ヨシフ・スターリンです。 スターリンはジョージア出身で、レーニンの遺書には スターリンはあまりにも粗暴で彼に権力が集中するととんでもない事になるだろう。 もっと辛抱強く、もっと誠実で、もっと丁寧で、もっと同志に親切で、彼ほど気まぐれでない人物を私の後継者にするように と書いてありましたが、スターリンが遺書の存在を握りつぶしたのでスターリンの死後になってようやく公開されました。 スターリンもレーニンの片腕としてボリシェビキ時代からの同志。 スターリンの性格を一言で言うと、レーニンの遺書にもあった通り 疑い深く独裁的で粗野な人物 と言えます。 なぜならスターリンのとんでもない失敗・悪行の数々は外部に出なかったから。 スターリン政権は1929年の世界恐慌も、1945年終結の第二次世界大戦も戦勝国として乗り越え、東西冷戦の中でアメリカと互角に渡り合い世界の大国として確固たる地位を築きました。 スターリン憲法により、ソ連共産党という「党が支配する国家」が完成し、党の指導者スターリンの権力は揺るぎないものになりました。 まさにフランスのルイ14世の 「朕は国家なり」状態で、スターリンの個人崇拝が広がっていた時代です。 スターリンの影響力を表すエピソード『スターリン・ショック』を紹介します。 スターリン「俺がルールだ」 ソ連国民「スターリン様ースターリン様こっち向いてーーーー」 「スターリン批判」をしたフルシチョフ(1953~1963) スターリンの死後、ソ連共産党の指導者になったのが ニキータ・フルシチョフ! それまで恐怖政治を行っていたスターリンとは打って変わって、フルシチョフの時代には 雪解けと平和共存が進みます。 フルシチョフは地方の労働者出身で、モスクワ市長として経験を積み、その親しみやすい風貌からも民衆に人気がありました。 その彼がやってくれました。 スターリンの死後とはいえ、当時はかなり勇気がいたと思います。 秘密会議で行った スターリン批判によって、 スターリン独裁政権時代の24年間にどんなことが起こっていたのか、決して英雄とは言えないスターリンの恐ろしい一面が後に外部に漏れ、全世界の人間が知ることになりました。 気に入らない人間や少しでも自分に反意を感じた人間は、党幹部であろうと議員であろうと農民であろうと容赦なく「 人民の敵」という名目で逮捕・銃殺されました。 第二次世界大戦でナチスが殺したソ連軍の数よりも、スターリンが粛清で殺した自国のソ連軍の数の方が多いのです。 しかしそれだけではありません。 密告制度 密告制度という言葉は僕が勝手に作りました。 が、スターリンは一般国民に 密告者を紛れ込ませてスターリン批判をした者を密告させ、尽く粛清しました。 密告者には報酬も与えられたため、密告はエスカレートし国民は互いに疑心暗鬼になり罪のない者まで密告するようになりました。 少なくとも 100万人の罪のない国民が粛清されたと言われています。 ソ連「あれー資本主義国さんたち。 世界恐慌ですって?大変ですね 笑 ぼくたちは計画経済なので関係ないよーだ。 五ヵ年計画も大成功だし社会主義ばんざーい」 資本主義国「五ヵ年計画大成功だって!!?まさか、本当に社会主義国家が最も優れた国会体制というのか?とりあえず社会主義スゴイ!!」 という状況でした。 実際は大飢饉で600~1000万人が死んでいましたが、失敗を隠して 五ヵ年計画の成功を世界に宣言しました。 以上の内容を、秘密会議でフルシチョフが報告しそれがアメリカのCIAに漏れて全世界が知るところになりました。 結局スターリンの死後、スターリンが 大粛清や ホロドモールで死に追いやったのは どれだけ少なく見積もっても800万人と言われています。 また(これは第二次世界大戦中という事もありますが)スターリンはポーランド将兵数千人を虐殺してカティンの森に埋めたとされる事件 カティンの森事件 など、虐殺も数多く行ってきました。 スターリンによる犠牲者は学者によってまちまちですが、 1200万人とか1600万人なんて言われたりもします。 フルシチョフ、対米には平和主義? フルシチョフは基本的に、 平和路線を模索した指導者として知られています。 そのいくつかを紹介しましょう。 戦後のスターリン時代を転換した スターリンの後に指導者となったフルシチョフの最大の功績は、スターリンが行った 独裁を引き継がなかったことと言われています。 それまでの恐怖政治とは打って変わって、フルシチョフの時代では割とソ連領内の雰囲気も柔らかくなり、それまでのスターリンが作っていた流れを変えた!エライ ソ連首相として初めて渡米した スターリンが主導していた東西冷戦のさなかに、フルシチョフは1959年にソ連内部の対米強硬派を抑え、 ソ連指導者として初めて渡米しアイゼンハワー大統領と会談しました キューバ危機の際の妥協 キューバ危機とは、東西冷戦のさなかに米ソの核戦争の緊張が最高に高まった出来事のことです。 カストロがキューバ革命によってキューバの指導者になり、それまで仲の良かったアメリカと喧嘩し、それ以降は逆にソ連と仲良くしました。 ソ連はキューバにミサイル基地を設置しました。 核戦争の危機が高まったキューバ危機において、 フルシチョフは交渉の末にキューバからミサイル基地を撤去しました。 しかし対内的には厳しいこともやりました。 同じ社会主義国に民主化運動を求める暴動があると、これらを厳しく弾圧しました。 これをポーランド事件、 ハンガリー事件 ハンガリー動乱 と呼ぶ。 第二次世界大戦後にソ連によって占領され、そのままソ連共産党の後押しを受けて成立した社会主義政党が国を動かしていたので、その他の国もソ連共産党の言うことを聞いていた。 ナルシスト、ブレジネフ登場(1964~1982) フルシチョフの弱腰外交が批判され一方的に解任され、次にソ連共産党の指導者になったのが レオニド・ブレジネフです。 フルシチョフに見出された ブレジネフですが、そのフルシチョフを蹴落として指導者になりました。 これからソ連は冬の時代を迎え、経済などが長期停滞に入るからです。 なぜナルシストなのか? これ、ぼく的にはめっちゃ面白いんですけど このブレジネフ、めちゃくちゃ勲章を胸に付けてますよね? どんだけ功績ある人なんだ!!? と思いますが、この勲章は誰から授与されたと思いますか? ソ連共産党の指導者に勲章を授けられるくらい偉い人、はい、それはソ連共産党の指導者しかいません。 1970年代、アメリカもソ連もベトナム戦争期に軍備拡張を進め過ぎたため、経済が圧迫されて停滞気味に、なので逆に「これはお互い損するだけやな」と対立解消の流れになりました。 現在はチェコ共和国とスロバキア共和国ですが、1948年以来この二国は「チェコスロバキア社会主義共和国」として一国でした。 もちろん共産党政権が実権を握っていたので、ソ連の言いなりでした。 しかし1968年春、チェコスロヴァキア共産党は「民主主義を否定する社会主義」に疑問を感じ改革に乗り出し、民主化運動を始めました。 チェコスロヴァキアの首都「プラハ」では百花斉放状態! 様々な人々が自由に創作し、自由に批評し合える社会を目指しました。 首都プラハでは西側の文化ミニスカートまで流行り出してまさにプラハは 自由化の爆発状態でした。 これを「 プラハの春」と呼びます。 しかしブレジネフはこの民主化運動を軍事弾圧し、市民の抗議を踏み越えてプラハの中心部を制圧しました。 これにて「プラハの春」終了 これを「 チェコ事件」と呼びます。 新冷戦スタート ブレジネフの功績 皮肉 としてもう一つ挙げられるのが「 新冷戦のスタート」です。 緊張緩和によって米ソの東西冷戦が治まりかけていた中、1979年に ソ連がアフガニスタンに侵攻しました。 これにより、米ソが元の緊張関係に戻ってしまいました。 これを 「 新冷戦」と呼びます ソ連のアフガニスタン侵攻 1979年、ソ連のブレジネフ政権がアフガニスタンの親ソ政権を支援し、社会主義政権の維持とイスラム原理主義ゲリラを抑えるためにアフガニスタンに侵攻した。 短期的な介入の予定が、結局10年間にも渡る泥沼の戦いを強いられることになり、経済が停滞していたソ連にとっては大打撃。 結局これがソ連崩壊の基点となり、また崩壊の大きな一因になった。 ブレジネフ死去、後継者は? そしてとうとう ナルシストブレジネフ様がお亡くなりになりました。 次の後継者は アンドロポフ様です。 しかしすぐに死去。 そこで次の後継者が チェルネンコ様です。 しかしアンドロポフに続いてすぐに死去し、次に登場するのがあの人です!! ソ連の最後の指導者、ゴルバチョフ登場 (1985~1991) ゴルバチョフ、本名「 ミハイル・ゴルバチョフ」 一言で言うとソ連を改革したなかなかヤル奴です。 ゴルバチョフは考えました。 ブレジネフの負の遺産、ソ連経済の停滞を打破しよう!! と。 そして「 グラスノスチ(情報公開)」と「 ペレストロイカ(改革)」を掲げて社会主義計画経済を修正しました。 ゴルバチョフが行ったペレストロイカ(改革) ゴルバチョフはソ連の改革を目指しており様々な政策を掲げました。 グラスノスチ(情報公開) グラスノスチとはロシア語で「 情報公開」という意味 ブレジネフ時代、マスメディアは 報道の自由が無くソ連共産党に認められた内容しか報道できませんでした。 それをゴルバチョフが改革しました。 皆さんに報道の自由を与えます! そして原則として今まで機密事項とされていた軍事関係を含めた国家情報を公開します!!! チェルノブイリ原発事故 しかし チェルノブイリ原発事故には間に合いませんでした・・・ ゴルバチョフが指導者になってからおよそ一年後、ソ連領内でチェルノブイリ原子力発電所の事故が起きました。 史上最悪の原発事故と呼ばれており、北半球一帯を汚染しました。 チェルノブイリ原発事故の際、まだグラスノスチが始まったばかりでゴルバチョフに報告がいかなかったと言われています。 やはり今までずっと秘密主義を続けていた人間にとって、急にグラスノスチで全て正直に報告せよと言っても無理だったんです。 結局、この最悪の事故でグラスノスチが行われなかったせいで多くの罪のない人民の命が奪われ、恐ろしい後遺症を持ち、それが子供に受け継がれることになりました。 この事故で、情報公開がいかに重要かという事を再認識したゴルバチョフでした。 ゴルバチョフ「いや、この人悪くなかったやん。 ん、この人も。 この人もこの人もこの人もや!スターリンもブレジネフも無茶苦茶過ぎるやろ!!!」 大規模な人事異動 いくらゴルバチョフ書記長が「グラスノスチをやる」と言っても、なかなか一人だけでは政策を進められません。 そこで大規模な人事異動を敢行し、ゴルバチョフと同様に「ソ連を改革したい」と本気で思っている人間をどんどん採用し、今まで通りの既得権益しか考えていない官僚たちをどんどん役職から外していきました。 新思考外交 またゴルバチョフ政権はブレジネフ政権が残した負の遺産「新冷戦」への平和的な対応も模索し、それまでのソ連の立場を一転して 一気に東西冷戦を終わらせました。 中距離核戦力 INF 全廃条約 1987年、アメリカのレーガン大統領とINF 中距離核戦力 全廃条約に合意して、 米ソの二大大国が核軍縮を約束しました。 第二次キューバ危機が起きないように! 冷戦の終結 1989年、アメリカのブッシュ大統領と ヤルタ会談で 冷戦終結を宣言しました。 これにより、翌年の1989年は東欧各国で民主化の嵐が起きました。 中ソ関係正常化 中国ともずっと仲が悪かったのですが、それもゴルバチョフが訪中して 中ソ対立を終結させました。 アフガニスタン撤退によりノーベル平和賞 そしてブレジネフ政権が残した負の遺産「 アフガニスタン侵攻」もやめ、1990年にアフガニスタン撤退を決めてノーベル平和賞を受賞しました。 ゴルバチョフが監禁され、エリツィンの登場 ゴルバチョフの ペレストロイカ(改革)を受けて「このままではソ連は崩壊する」と考えたソ連共産党幹部たちがクーデターを起こし、休暇で別荘にいたゴルバチョフを監禁しました。 しかし、そこでクーデター軍を倒してゴルバチョフの後を継ぐのが ボリス・エリツィンです。 エリツィンはクーデター軍を制圧してゴルバチョフを解放しました。 この事件を経てゴルバチョフからエリツィンへと人気が移ってしまい、ゴルバチョフは ソ連共産党の解散を宣言し、そのままソ連邦自体も解体してゴルバチョフは表舞台から姿を消しました。 さようなら、ゴルバチョフ! さようなら、ソ連邦! 独立国家共同体の創設を宣言し、ソ連を解体 エリツィンはソ連から独立しようとした国々を 独立国家共同体 CIS を創設することを条件に、1991年12月26日に ソ連の消滅を宣言しました。 つまりソ連という「支配」的な構図ではなくなったけど、「これからも友達でいようね」という高圧的な意味でCISを創設した。 ロシア連邦「え、先生。 いじめちゃいますよ。 おれら親友っすよ!な?」 その他の国々「う、うん。 」 こうして1922年から続くソ連が1991年に解体され69年の歴史に幕を閉じました。 エリツィンがロシア連邦初代大統領に ソ連が解体し、ロシア共和国はロシア連邦に名前を変えて エリツィンが初代のロシア連邦大統領になりました。 エリツィン大統領が真っ先にやった事、それがロシア連邦の民主化でした! 価格の自由化でロシアがガタガタに エリツィンがロシア連邦を民主化し、価格の自由化を始めたら何が起こったのか? 1992年だけで2600%のインフレが進行しました 何故だかわかりますか? 今までソ連時代はずっと、企業は国有化して計画経済で他社競合による価格の自由化を認めていませんでした。 それが突然、 競合他社もいないのに好きに値段を決めていいと言われれば? 超ハイパーインフレが起きますよね。 ソ連からの流れをくんだロシア連邦の初代大統領エリツィンが様々な国際的批判を経て、遂に プーチン大統領を後継者に指名して引退しました。 エリツィンは民族紛争があればこれを武力で鎮圧し、価格の自由化で国民を窮地に陥れて、あげく汚職まみれで引退したので、後継者に指名したプーチンとは密約があったと言われています。 おわりに いやー長かったですね。 レーニンからスターリン、フルシチョフからブレジネフ・・・と最後はナウで話題のプーチン大統領まで。 ロシア連邦の前身はソ連、ソ連の歴史を知ることで現在の世界の紛争の原因を少しは理解しやすくなると思いますし、ソ連がまいた紛争の種は現在でも世界の至る所で民族紛争として花を咲かせています。 ソ連の歴史を知ることは世界の歴史を知ることだと思います。 中高でチラッと耳にした事のある用語が頻出して、今更ながら「あーそういうことやったんか!」と思う事も多いです。 もし大きな間違いがあれば、コメントかお問い合わせ欄で教えてください ダズビダーニャ ロシア語でさようなら• 1992年11月生まれ 京都在住 旅する空手家 大好物は「旅」「自然」「カメラ」「空手」 そして「鶏天」と「麻婆豆腐」も... 顔に似合わずロマンチスト 関連する記事• 世界遺産1級取得に向けて、「世界史」の必要性を感じ始めた今日この頃です。 今日のテーマは「中国の古代史(夏から秦まで)」です。 一緒に頑張りましょう![…]• 紀元前753年、オオカミに育てられた双子のロムルス兄弟(兄ロムルスと弟レムス)によって伝説上のローマ帝国が建国された。 『ローマ』はこのロムルスに由来[…]• 目次 1. はじめに2. 人類の誕生と進化(400万年前~1万年前)2. 化石が語る人類の進化2. 猿人から原人、旧人へ2. 猿人2. 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ソ連 アフガニスタン 侵攻

そもそも、アフガニスタンってどんな国? ソ連がアフガニスタンに侵攻した理由を見る前にアフガニスタンはどこに位置しているのかを確認しようと思います! アフガニスタンがどんな場所にあるかを把握しておくだけでもソ連がアフガニスタンに侵攻した理由をより把握しやすくなるでしょう。 さて当のアフガニスタンは中央アジアに位置しています。 日本人は普通でしたら気にも留めないですよね。 地図に赤線が引いているところが、アフガニスタン! ~スタンっていう国が周りに多い!っていうのが率直な感想。 この「スタン」は「国、地域」を表す言葉だそうです。 アフガニスタン東部には国境をまたいでパキスタンにも存在する、パシュトゥーン人が多く暮らしています。 このパシュトゥーン人は後々大きな影響を発揮しておくのでひとまず頭の片隅にでもおいておきましょう。 アフガニスタンの歴史 さてソ連がアフガニスタンに侵攻した理由を把握する前にアフガニスタンの歴史も押せておこうと思います。 なぜならソ連によるアフガニスタン侵攻前後のアフガニスタンの歴史を把握しておけばより、ソ連の侵攻理由をクリアに理解できると思うからです。 アフガニスタンの歴史を見ますと、この国は度重なる独立戦争の後に1919年にイギリスから独立しました。 (やったぜ!) 1973年まで王政を行っていましたが、ダーウード首相による革命によって共和制に国政が変わります…。 この革命で大統領に就任したダーウードですが、革命に協力した左派の人民民主党と憲法改正において対立し、また国内のイスラーム復興運動を弾圧したためにイスラーム復興運動家とも対立しました。 この革命において主要なアクターとなった左派の人民民主党は当然のことながらソ連と関係がありました。 ですので無神論者ソ連と同じように人民民主党も無神論を是とする政党であり、政策にもそれを反映したものを打ち出していきます。 しかしこの政策は信仰心の厚いムスリムにとっては耐え難いものであり、彼らにとって政府は憎むべき敵に見えても不思議ではないでしょう。 このように革命後のアフガニスタンは左派と宗教右派に真っ二つ分断されたわけです。 結果、国内が真っ二つ割れたことでタウードは支持基盤が揺らぎ1978年に起きた4月革命で殺害されてしまうのです…。 さてこのダウードが暗殺された4月革命後に権力を握ったのが左派の人民民主党です。 しかしこの政党の指導者タラキーは農業政策で致命的な失策をやらかしてしまいます。 アフガン版農地改革は地獄の入り口だった… その致命的な失策とは大地主から小作人への農地の再配分です。 左派の人民民主党はソ連からの影響をメチャクチャに受けていますので、天下をとったからには共産主義的な政策を当然のように推し進めていきます。 そしてこの共産主義影響下にある農地の再配分政策によって政府は地元社会で影響力を持っていた従来の地主層、部族の長から見限られてしまいます。 こうした地元の大物から嫌われても国民の多数である農民から支持を得られれば政府としては問題はありませんでした。 さてそれまで農地の制度改革が行われるまで農民は地主層に生産した作物を収める代わりに、地主からある程度の生活を保証されてきました。 しかしこの農地政策によってある農民は意味で御恩と奉公の関係にあった地主層との関係を強制的に切られ、自分の生活は自分たちでどうにかしなければいけなくなりました。 ここでうまくやれば以前よりも豊かな生活を獲得できたのでしょうが、多くの農民は失敗し以前よりも貧しくなったように感じられるようになってしまいました。 そのため農民としては政府が余計な政策をしやがったので自分たちの生活は苦しくなったと、政府を嫌うようになるのですね。 こうして革命政府は国民から総スカん状態となるのです。 さてこうした状況ともなれば政府内でも信頼回復のためトップを変えようとする動きが出ても不思議ではないでしょう。 そうこうしているうちに1979年の10月にタラキーが急死し、これによってアミーンはアフガニスタンの指導者の立場をゲットしたのです。 こうして政権を獲得できたアミーンでしたが、その2ヶ月後の12月にソ連による侵攻によって死亡してしまうのです…。 (100日天下ならぬ、60日天下だったアミーン。 悲しいものですね。 盛者必衰?と言えるでしょう。 ) なんでソ連はアフガニスタンに侵攻したのか? はてさて、なぜにソ連は種がにスタンに侵攻にしたのでしょうか。 1970年代は確かにデタント(アメリカとソ連の緊張関係が緩和されていた)があったとはいえ、冷戦の真っただ中にありました。 ソ連がアフガニスタンに侵攻すれば、アメリカと再び緊張関係が訪れると予想できます。 実際、ソ連はもともと侵攻に消極的だったのですが結果としてはアフガニスタンに侵攻することになってしまいました。 さてその理由は何だったのでしょうか? その理由は2つあると言えます。 1つ目の理由は、アメリカがアフガニスタンに接近していたように見えたこと。 2つ目の理由としてはソ連国内におけるムスリムへの影響を抑えること。 以上がソ連がアフガニスタンに侵攻した理由です。 ここからはその理由を詳しく見ていこうと思います。 アメリカとアフガニスタンの接近 1979年の2月にアメリカの中東地域におけるパートナーだったイランのシャー政権が倒され反米的なイスラーム共和国が成立しました。 こうした中でアメリカは中東での影響力を保持するため新しいパートナーを探すはめになっていたのです。 このときアフガニスタンを指導していたのが先ほども触れたアミーンです。 彼はかつてアメリカに留学しており(さらにアメリカのエージェントの連絡先をいつも持っているとの噂話もあり)ソ連にとってアミーンは疑わしい人物でした。 ソ連としてはアミーンはいつか自分たちを裏切り、アメリカ側に付くのではないかと疑問視しており、当のアミーンは王政廃止後に進められたソ連との協力路線から距離をとりはじめていました。 この動きはソ連にとってアミーンはアメリカ側につくと思わせる重大な背信行為に映ったのです。 しかし怪しい動きをしているかもとういうだけで軍隊を派遣するものでしょうか? しかし、ソ連は最終的には軍隊を送ることにしました。 その理由としてはアフガニスタンとソ連の地理的関係が問題になってきます。 地理的関係がどーして侵攻に関係があるの?と感じた人もいると思います。 さてアフガニスタンはソ連の要所であり、この社会主義国家が親米国にでもなってしまうと、ソ連の国防上大きな穴が開いてしまうことになります。 アフガニスタンに米軍基地なんかができたらもう、ソ連の横っ腹にナイフが突き立てられたようなものです。 アフガニスタンに米軍基地ができればアメリカのミサイルや核兵器が当然持ち込まれま、その近さからソ連全土がミサイルの攻撃範囲になるわけです。 一番最初に確認したアフガニスタンの地図を見返してもらえれば、そのソ連指導部の危機感を理解できると思います。 こういうわけでソ連の上層部ではアフガニスタンがアメリカと手を結ぶ前にどうにかしようと慌てふためく状況になっていたのです。 そうしてソ連政府にとって国防上の重要性から、アメリカに取られるくらいなら先に分捕ってしまえということでアフガニスタン侵攻という手段が本気で検討されるようになったのです。 ソ連国内のムスリムへの影響を防止するため さて当時のアフガニスタンは左派の人民党が支配する社会主義国だったっために宗教が厳しく制限されていました。 敬虔なムスリム(イスラーム教徒)にとって国の政策は許しがたいものであり、アフガニスタン国内では宗教禁止に対して不満が爆発する危険性もあったのですね。 そうした中、1979年に起きたイラン革命によってイスラームを根底とした政権がイランに誕生しました。 ソ連としてはこの革命が仮に社会主義国アフガニスタンに伝染し、イスラーム主義化するような事になってしまうと国内的に非常にマズいのではという危機感がありました。 ではなぜソ連にとってこのイスラームの活発化が危険なのでしょうか。 アフガニスタンがイランに続いてイスラーム国家に体制を変革したとなれば、これに刺激されたソ連国内のムスリムたちが独立運動を企て実行するのではないかという危機感をソ連政府が抱いていたからなのです。 ソ連にムスリムがいたの?と疑問に思う人もいると思います。 実は、ソ連の崩壊によって独立したカザフスタンやウズベキスタンなどの中央アジア諸国はムスリムが人口の多くを占めています。 もともと中央アジアのこうした国々はロシア帝国時代からロシアに支配されていたのですが、ロシア革命後もソ連の支配下にありました。 そして当然の事ながら、こうした中央アジアでも共産党によって統治されていたので宗教は傍に追いやられていたわけです。 こうした中で共産化したアフガニスタンがイスラーム国家に転換したとなれば、ソ連支配下の中央アジアにいるムスリムが神権統治体制の成立の可能性を夢見ないわけがない!つまりイスラーム国家の成立を要求するようになるのではという危機感をソ連は抱いたわけです。 こうしたわけで、ソ連は国際世論から批判を受けようとも国内のムスリムの動きとアメリカの動向を封じ込める必要があると判断したためアフガニスタン侵攻を実行するはめになってしまったのです。 ムジャーヒディーンの登場 こうしてソ連が1979年の12月にアフガニスタンに侵攻したことで、ソ連は泥沼のアフガニスタン紛争に突っ込んで行くことになるわけです。 アフガニスタン国内だけでなくアラブ世界、その中にはアル・カイーダの指導者となるビンラディンやISの母体組織を作り上げたザルカーウィーからもソ連に対抗するムスリムの戦線が結成されました。 こうしたムスリムの勢力はジハードを実践する者を意味するムジャーヒディーン(聖戦士)と名乗りソ連との聖戦を遂行して逝くのです。 アル・カイーダの指導者となるビンラディン ムジャーヒディーンたちはアフガニスタンに集結し、神を否定するソ連に対してのジハードを実行するるという宗教的大義によって高い士気を保ちながらゲリラ戦を仕掛けていったのですね。 ソ連は共産主義国家なので基本的には宗教は否定されています。 ムジャーヒディーンにとって唯一神の否定は決して許されざる行為であり、無神論者ソ連によるイスラームの地アフガニスタンの解放は正に聖戦となります。 ですから仮にこの戦いで死んでも殉教のため来世の幸福は約束されていると考えるのです。 こういうわけでムジャーヒディーンたちはムスリムの解放を旗印に死をも恐れず、逆に喜んで死ぬ戦争をソ連が撤退するまで実に9年間も続けたのでした! 9年もゲリラをやってるって、何だか信じられませんね。 ソ連は死をも恐れぬ兵士と9年間も戦争をするはめとなり最悪な結果としか言えないでしょう。 このようにムジャーヒディーンは9年間も戦い続けることができました。 ただムスリムの解放という崇高な目的や殉教による来世の幸福の約束があったとしても、ある意味での精神論だけじゃ戦い続けることは難しいのではないでしょうか。 精神論による神風や竹槍を持って戦うことがあほらしく感じられるように…。 もし仮にそれだけで戦い続けられたとしても、ソ連を撤退まで追い詰めるにはでもっと時間がかかったのではないでしょうか。 無論9年も十分に長いと思いますが…。 さてムジャーヒディーンがソ連を撤退させるまでの9年間を戦い続けることができたその理由は、アメリカとパキスタンそしてサウジアラビアの金銭的、軍事的支援が存在したからでしょう。 冷戦とアメリカ 対テロ戦争を2000年の9. 11テロ後に始めたアメリカがムジャーヒディーンを支援していたと聞くと驚く人は多いと思います。 ですが現実にアメリカはソ連からみれば過激派イスラームテロリストであるムジャーヒディーンにせっせと支援を行っていたのです。 さてアメリカがムジャーヒディーンを支援した理由は冷戦構造下に置ける、ある意味でのソ連に対しての嫌がらせと説明することできるでしょう。 冷戦構造下ではアメリカとソ連は世界の覇権をかけて争っており、相手の力を削ぐために利用できるものは利用しようということでムージャーヒディーンもアメリカにとってソ連の敵ということで十分に支援の対象だったのですね。 またイランを失ったアメリカに代わって、ソ連がアフガニスタンを支配することでソ連の中東での影響力の拡大の防止と、西側諸国に安定した石油の供給を可能とするためには中東の湾岸諸国へのソ連による脅威を遠ざけるという戦略もあったためアメリカはムージャーヒディーンに武器の支援、軍事訓練を施すなどの支援を行ったのです。 パキスタンがムジャーヒディーンの味方をしたのは、パキスタンとアフガニスタンの間にあった国境問題が大きな要因と言えるます。 ソ連の侵攻のさいに作られた、操り人形とも言えるアフガニスタン政府はパキスタンに対して自分たちに有利な国境を主張していました。 これにはパキスタンは当然ブチ切れます。 そこでパキスタンアフガニスタンが混乱すれば自分たちに有利な国境を引くことが容易になると考え、ムジャーヒディーンを自国内で軍事訓練を施し、アフガニスタン解放の戦いに解き放っていくのです。 サウジアラビアの危機 さてソ連によるアフガニスタン侵攻で危機感を一番持ったのはもしかしたらこのサウジアラビアかもしれません。 サウジアラビアがソ連による侵攻をを恐れるのは無論サウジもソ連との実戦に巻き込まれるのではという不安もあったことは確かです。 しかしサウジアラビアにとっては、ソ連のアフガニスタン侵攻が引き起こすかもしれないそれ以上に恐れることがありました。 それは国内での反政府意識が高まり、クーデターが発生するかもしれないという恐怖です。 ソ連のアフガニスタン侵攻がなぜクーデターがサウジアラビアで起きる危険性が関連しているかが理解できないと思う人は多いと思います。 ただ次の背景を知ればサウジアラビアがクーデターを警戒することを理解できると思います。 革命への危機感 もともとサウジ王家はその成り立ちからして、イスラームの守護者であることを持って国の支配を正当化してきました。 ただ建国から数十年たちオイルマネーで経済が沸き立つなどでサウジアラビアの政策はある意味でイスラーム的なものから西欧的なものに近づいていました。 しかし、そうした中で1979年の頭にイラン革命が発生しイランに神権国家が誕生するのです。 そして、その革命イランはサウジアラビアはイスラーム的に正しい政治を行っていないと非難を発するのです。 先ほど触れたようにサウジアラビア王家の正当性はイスラーム的に正しい政治を行っているとするところにあります。 イランはそのサウジ王家による支配の正当性を攻撃したのですね。 こうしてサウジ王家の権威が揺さぶられる中でメッカで重大事件が発生します。 それはサウジ王家の支配はイスラーム法から逸脱していると主張するグループがメッカのカーバ神殿を占領してしまったのです。 これによって当時のサウジ王家の権威は大きく傷がついたと言える状況にありました。 そうした中で1979年の末にソ連によるアフガニスタン侵攻が発生します。 このまま何もしなければサウジアラビア王家の権威は回復できないほどに落ち、革命が起きても不思議ではありませんでした。 ですからサウジはそれを避けるためにもジハードに参加するムジャーヒディーンに資金的援助をするなど、ムジャーヒディーンに手厚い支援を行ったのです。 そしてサウジはそれだけでなく、国内の過激派をアフガニスタンに送ることで国内の安定も図りました。 ただアフガニスタンに送られたムジャーヒディーンの中にある人物がいました、そう彼こそが後にアメリカを攻撃するオサマビン・ラディンなのですね。 以上の理由からムジャーヒディーンはアメリカなどから強力な援助を受けることによって、長年にわたり戦闘を継続できたのでした。 このようにアメリカからも支援を受けたムジャーヒディーンが後に、アメリカにも牙を向くことになろうとは当時は誰も予想しえぬものでした。

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アフガン侵攻1979

ソ連 アフガニスタン 侵攻

インドリカ・ラトワッテ国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)アジア太平洋局長=UNHCR提供 今月4日、福岡市のNGO「ペシャワール会」現地代表で医師の中村哲さん(73)がアフガニスタン東部で何者かに殺害される事件が発生し、依然混乱が続く同国の厳しい現状を突きつけられた。 現地では紛争がやまず、今も周辺に大量の難民が流出し続けている。 混乱の発端となった旧ソ連軍侵攻(1979年12月)から今月で40年を迎えた。 インドリカ・ラトワッテ国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)アジア太平洋局長が「アフガニスタンの強制移動をなくすために」と題して毎日新聞に寄稿した。 中村さんが情熱を傾けたアフガニスタンの人々の過酷な現実に思いをはせたい。 1979年12月以降、終わりなき紛争と暴力により、アフガニスタンから多くの人が強制的な避難を余儀なくされました。 現在、アフガニスタンから国境を越えて避難している人は約460万人、その半数を占める270万人が難民として登録されています。 世界を見渡してみても、アフガン難民は最も長く避難生活を強いられ、世界から疎外された難民の一例で、40年たった今もなお、自身の未来も見えない不安定な状態にあります。 そして、国際社会から見放されているのではと、日々不安に襲われています。 アフガニスタンにおける強制移動をなくすためには、継続的な平和と安全、そしてインクルーシブ(包括的)な政策と開発がカギとなります。 しかし長年にわたる努力のかいなく、この目標はいまだ達成できていません。 国境を越えて逃れているアフガン難民の基本的なニーズ、尊厳を守ることも、人的資源や技術への投資、持続的な帰還、自国への再統合に向けた支援も十分とは言えません。 アフガン難民は、世界80カ国以上で庇護(ひご)を受けています。 現在、ヨーロッパ諸国に逃れてきている庇護申請者のうち、最も大きな割合を占めるているのもアフガン難民です。 しかし、国を逃れたアフガン難民の90%がパキスタンとイランの2カ国に集中しているという事実はあまり注目されることがありません。 両国の政府は、それぞれの国で社会経済的な課題を抱えながらも、隣国から逃れてきた人たちを寛容に受け入れているのです。 パキスタンでもイランでも、アフガン難民は主要都市で自由な権利を得て生活し、子どもへの初等教育、すべての人への国の保健医療システムへのアクセスが確保されています。 40年前にはわずか6%だったイランのアフガン難民の子どもの識字率は、現在69%にまで伸びています。 世界の経済大国といわれる国々は、社会全体で難民を受け入れ、課題に立ち向かっている両国を見習うべきです。 1979年、当時生後1カ月だったフェッゼ・ホッセイニは、両親に連れられてアフガニスタンからイランに逃れました。 日々の暮らしは厳しいものでしたが、幼いフェッゼは避難先のイスファハンで、自国では許されなかった教育を受けることができました。 家族と熱心な先生の勧め、インクルージョン(包括)を目指した先進的な政策も後押しし、フェッゼは医学部に進学することができました。 フェッゼはイスファハンで唯一のアフガニスタン人医師となり、現地の人、難民の区別なく医療を提供しています。 彼女の成功は、個人の能力や苦境を乗り越えるたくましさに加え、故郷を追われた人がより良い将来に向けて歩んでいけるよう、さまざまな支援を行ってきた結果だと言えるでしょう。 フェッゼ・ホッセイニ医師は5歳の娘とリビングルームに腰掛けながら、故郷を離れたことでより良い未来を手にするチャンスを得たという事実に、皮肉だと感じながらも感謝の念を抱いていました。 でも彼女は自身に問いかけていました。 この先、子どもや孫の世代はどうなるのかと。 これは故郷を追われたアフガニスタン人のみならず、国際社会に暮らす私たちに等しくのしかかる終わりなき問いなのです。 アフガニスタン政府はいまだ脆弱(ぜいじゃく)でありながらも、市民のために平和で安定した未来を構築しようと奮闘を続けています。 民間人の犠牲者が急増し、政府が持つ領土が縮小しても、条件さえ許せば、故郷への帰還を切望する人がいまだ多くいるのです。 しかし、安全で持続性のある帰還には投資と開発が必要です。 アフガニスタン政府はUNHCRやその他のパートナーと協働し、インフラの強化をはじめ、国内15カ所を帰還のための優….

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