ポルポト。 ポルポト政権とクメールルージュの全容がすべてわかるアプリ

ポルポト|20世紀最大の蛮行,カンボジアの悪夢

ポルポト

この記事の目次• ポル・ポトとは 共産主義への傾倒 ポル・ポトは、1928年の5月19日に「フランス領インドシナ 現在のベトナム・ラオス・カンボジア 」の「プレク・スバウヴ 現在のカンボジア王国コンポントム州 」に生まれました。 当時のカンボジアのなかでは、裕福なほうに含まれる家庭で、従兄弟が王の側室になるなど、王宮とも関係のある家庭でした。 幼少期は、慣例に従い読み書きを習うため、6年間プノンペンの寺院で暮らし、当時の宗主国だったフランスのパリに留学します。 1949年パリに渡ったポル・ポトは、エリート養成大学のひとつである「フランス国立通信工学校」に入り、2年間の技術課程を学びました。 そして、この留学中にポル・ポトは、共産主義者となり「クメール共産主義グループ」に参加しました クメールとは、クメール人のことで、カンボジアを中心とする東南アジアの民族。 そしてポル・ポトは、内部機関紙に「中国革命」についての記事を寄稿したり、スターリンの共産党をコントロールする手法に感銘を受けたりしました。 こうして、共産主義運動に傾倒していったポル・ポトですが、学業のほうでは、3年連続で試験に失敗し、奨学金を打ち切られたので、1952年の終わり頃にカンボジアへ帰国しました。 政権奪取まで 1954年には、フランスが、仏領インドシナを去ります。 1955年には、カンボジアの国王ノロドム・シハヌークが、王位を父に譲って退位し、自ら首相となるための政治的基盤として「サンクム 人民社会主義共同体 」を、総裁として結成しました。 そしてシハヌーク総裁は、共産主義などの反対勢力を一掃して、1955年に実施された選挙で、議席のすべてを獲得しました。 こうしてシハヌーク体制が続いていましたが、ベトナム戦争によって状況は次第に変化していきます。 1970年3月に、シハヌーク国家元首が、中国訪問している隙をついて、アメリカの支援をうけたロン・ノル将軍が、クーデターを起こし、カンボジア国会でシハヌークの退位を決議させました。 ポル・ポトは、帰国後は国内での共産主義への弾圧から逃れて、活動ををつづけていました。 1965年には北京を訪れた際に、鄧小平や劉少奇などの中国共産党の幹部たちと一緒に仕事をし「カンボジア労働者党」は、中国共産党の支配下に入りました。 1966年には、党名を「カンボジア共産党」に変更しました。 そして、このカンボジア共産党は、のちに「クメール・ルージュ」として知られるようになっていきます。 クメール・ルージュは、共産主義への弾圧が激しい都市部では活動できなかったので、カンボジア東北地方のジャングルに拠点を構え、訓練や指導をおこないました。 この時期は、他の左翼集団と連絡をとるのは容易ではなく、ポル・ポトの1977年の発言によれば「連絡のためには徒歩で行ったり、象の背中に乗って行かねばならず、また、連絡用ルートを遮断した敵を避け続けねばならなかったので、1ヶ月が必要だった」ということです。 ポル・ポトにとっては、こうした状況下で、先ほどのロン・ノル将軍によるクーデターが起こったのです。 カンボジア議会の決議によって、追放されたシハヌーク元国家元首は、とりあえずはそのまま北京に亡命します。 しかし、シハヌークは挽回をはかるために、敵対していたポル・ポトに接触し、共闘関係を築きました。 このときポル・ポトは、元国王の支持を取りつけることで「自らの正当性を主張できる」と考えました。 1970年、ニクソン大統領は、 北ベトナム軍とつながっている カンボジアの共産主義勢力を一掃するために、ロン・ノルのカンボジア軍と協力して、カンボジア東北地方の都市部や農村に、空爆をおこないました。 これにより、インフラは破壊され数十万人が犠牲となり、この空爆開始から1年半で200万人が国内難民となる状況がうまれました。 そしてロン・ノル政権は汚職にまみれていたため、国民のあいだには不満がたまり、クメール・ルージュへの人気が高まっていきます。 こうしてクメール・ルージュは加入者が増えていき、ポル・ポトの勢力拡大につながっていきました。 1973年には「パリ協定 ベトナム戦争終結と平和回復に関する協定 」によって、アメリカ軍がベトナムから撤退しましたが、カンボジア政府軍とクメール・ルージュとの戦いは継続されました。 1975年4月17日、ついにクメール・ルージュは首都プノンペンを占領しました。 ロン・ノルはアメリカへ亡命したのですが、逃げ遅れたロン・ノル政権の閣僚たちは、プノンペン陥落直後に「敵軍掃討委員会」に身柄を拘束され、全員処刑されました。 他にも政治家・高官・警察官・軍人ら700人以上が殺害され、遺体は共同墓地に投げ込まれました。 ポル・ポトはノロドム・シハヌークと「売国奴」としてリストに名を挙げた、少数の人物のみを処刑すると約束していましたが、この約束が守られることはありませんでした。 ポル・ポト政権誕生 クメール・ルージュによるプノンペン占領後すぐは、都市部の住民たちは、ロン・ノル政権を倒したクメール・ルージュを歓迎していました。 しかしクメール・ルージュは、都市部の住民を農村での食糧生産に、強制的につかせるために「アメリカ軍の空爆があるので2、3日だけ首都から退去するように」と伝え、都市居住者を地方の集団農場へ強制移住させました。 農村の住民もそれまでの住宅を奪われ、全人民がサハコー 人民公社 といわれる、幅2メートルから4メートル、長さ3メートルから6メートルの、電気もラジオも水道もない小屋に、男女をわけて強制的に移住させられました。 生存者の証言によりますと、病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても、クメール・ルージュは全く配慮をしなかったそうです。 これは、近代化してきた世界の歴史からみると、とてつもない状況だといえます。 ポル・ポトは、クメール・ルージュが全権掌握し、国名を「民主カンプチア」としたあとも、ジャングルからは出ずに、シハヌークを傀儡政権として操ろうとしますが、シハヌークは、君主制を回復させようとします。 もちろんクメール・ルージュはこれを無視し、ポル・ポトの真意を悟ったシハヌークは、粛清を恐れておとなしくしましたが、王宮に監禁され国家元首の地位も奪われました。 1976年5月13日、ポル・ポトは、民主カンプチアの首相に正式に就任し、徹底的な国家の改造に着手しました。 ポル・ポトは、中国の毛沢東主義の影響をうけ、理論上は、原始時代に存在したとされた仮説にすぎない「原始共産主義社会」を再現させ、資本主義はおろか、都市文明を徹底的に廃絶しようとしました。 民主カンプチアのもと、通貨の廃止、私有財産の没収がおこなわれ、教育や医療も否定され、国立銀行や国家機関は、そのすべてが廃止されました。 さらには「国家無神論」にもとづいて、国家の伝統的宗教 上座部仏教 からキリスト教、イスラム教などのすべての宗教が禁止され、少数民族は存在自体が禁止されました。 家族の形態も解体され、クメール・ルージュの許可がない、自由恋愛や結婚も禁止されました。 このような体制となった、民主カンプチアは、深刻な食糧危機に見舞われます。 都市部の市民を農村部に強制連行し、劣悪な環境下で朝5時から夜10時まで働かせましたが、近代的な機械は、資本主義文明の象徴として使用せず、すべてを手作業でおこないましたので、生産力はたいして見込めませんでした。 さらには、こうして生産された農作物を、海外からの武器の調達資金をえるために輸出しました。 もちろん強制動員させられたのは、農業だけではなく、運河やダムの土木工事などにも、過酷な状況での強制労働がおこなわれました。 こうして民主カンプチアの民は「1日2杯のおかゆ」だけしか許されない食生活と、劣悪な労働環境で、飢餓、栄養失調、過労による死者が続出しました。 ポル・ポトは、このような惨状を目の当たりにし、政策の失敗の原因や、政策そのものを問題とするよりも、カンボジアやクメール・ルージュ内部に、裏切り者やスパイが潜んでいるためであるとして猜疑心を強めていきました。 このような猜疑心は、のちに展開される党内での粛清、カンプチア人民への大量虐殺などの、大きな要因の一つとなります。 加速していく虐殺 民主カンプチアは「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱えて、政治的反対者を虐殺していきました。 国民は「新人民」と「旧人民」にわけられ、プノンペン陥落後に、都市から強制移住させられた新参者の「新人民」は、たえず反革命の嫌疑をかけられる一方で、長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は1976年まで共同体で配給を受け、自ら食料を栽培できました。 ポル・ポトを含む、クメール・ルージュの幹部の多くは、高学歴でインテリ出身でしたが、高度な知識や教養は、ポル・ポトの愚民政策の邪魔になることから、医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告をさせて、別の場所へ連れ去ったあとに殺害しました。 やがて連れ去られた者が、全く帰ってこないことが知れ渡るようになっていくと、教育を受けた者は、事情を察し、無学文盲を装って「命の危機」を逃れようとしましたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害されました。 こうしてプノンペンは、飢餓と疾病、農村への強制連行によって、ゴーストタウンとなった一方で、知識人は見つかれば殺害されました。 ポル・ポトは「資本主義の垢にまみれていないから」という理由で10代前半の無垢な子供を、重用するようになり、少年兵を操り、子供の医師も存在しました。 1978年12月25日、ベトナムに避難していた、カンボジア人によって構成される「カンプチア救国民族統一戦線」が、ベトナムの援助をうけて、カンボジア国内に侵攻を開始しました。 こうして「カンボジア・ベトナム戦争」が勃発しました。 ポル・ポト政権の「カンプチア革命軍」は、粛清の影響による混乱で指揮系統が崩壊していましたので、わずか2週間で、カンプチア革命軍の兵力は半減させられました。 1979年1月7日、ベトナム軍がプノンペンに入り、ベトナムの影響の強いヘン・サムリン政権「カンボジア人民共和国」が成立しました。 このあとベトナムは、カンボジアを完全に影響下におき、長期間にわたって、その影響力を保持することになっていきました。 ポル・ポト政権崩壊後 こうして、政権を倒されたポル・ポトとその一派は、タイの国境付近のジャングルへと逃れて、採掘されるルビー売買の利権を元手に、反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けました。 1997年にポル・ポトは、政府との和解交渉を試みた腹心と、その一族を殺害しました。 しかしその後、クメール・ルージュの軍司令官の手によって「裏切り者」として逮捕され、終身禁錮刑 自宅監禁 を宣告されます。 1998年4月15日にポル・ポトは、心臓発作で死去しました。 しかし遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺の可能性もあるといわれています。 そしてポル・ポトの遺体は、兵士によって古タイヤと一緒に焼かれ、そのままその場所に埋められました。 この火葬には、ポル・ポトの後妻と、後妻とのあいだに生まれた1人娘が立ち会いました。 後妻と娘は「世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫であり、父でした」と語ったそうです。 以上でおしまいです。 アジアを代表する虐殺者「ポル・ポト」でしたが、いかがでしたか?.

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独裁者ポル・ポトのマジキチ政治を解説【池上彰解説塾】

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生涯 [ ] 生い立ち [ ] サロット・サル(以下「ポル・ポト」という。 )は、のプレク・スバウヴ(現在のカンボジア王国)で生まれ育った。 父の名はペン・サロット Phen Saloth 、母はソク・ネム Sok Nem。 ペン・サロットは12ヘクタールの土地(9の水田と3ヘクタールの農園)と水牛6頭を所有し、2人の息子と養子にとった甥たちなど約20人で水田を耕作していた。 使用人は雇っておらず、収穫期は村人同士で手伝って作業した。 収穫量は年平均で籾6トンで、20以上の家族を養える量だった。 これはカンボジア全体のレベルから見ると十分富裕な自作農の規模だが、ポル・ポトの兄ロット・スオンの説明では、村には50から100ヘクタールを所有する農家もあり、 その中では中規模の自作農だったという。 ポル・ポトの生家は王宮と関係のある家系で、ペン・サロットの姉ネアク・チェン Neak Cheng が王宮で働き始めたことから始まるようである。 特に、チェンの娘ルク・クン・メアク Luk Khun Meak が王宮舞踊団の踊り手になり、その後王の側室になったことで王宮との関係は強まった。 幼少期 [ ] ポル・ポトの生年や幼少期の生い立ちの説明は資料や文献によって異なる。 生年 については、5月19日と5月19日の2つの説がある。 デイヴィッド・チャンドラーは著書 の中で説をとっている。 一方、B. Kiernanは自身の著書 では説をとっている。 ただし、同著者の別の著書 では、のままになっている。 兄弟の人数 文献 によれば、ポル・ポトは9人兄妹の8番目として生まれたことになっている。 一方、B. Kiernanの著書内 では、7人の子供のうちの末っ子として生まれたと書かれている。 幼少期の生活 幼少期に関しては、「彼は当時の慣例にしたがって幼時に6年間プノンペンの寺院で暮らし、リセから中級専門学校の電気機械科に進んだのちパリへ留学し」と文献 の中で書かれている。 これは、3月にのジャーナリストが初めて民主カンプチアに入国しポル・ポトにインタビューした際、以下のポル・ポトの発言をそのまま書いたもののようである。 「私は、ある農民の一家の出だ。 子供の時分は、両親と一緒に住んで農作業の手伝いをしていた。 だがその後、伝統に従って、読み書きを習うため寺院で生活した。 寺で6年間過ごし、2年間は僧侶になっていた。 」 同文献 は、のロット・スオンとのインタビューの内容を記したことになっているが、7月9日にプノンペンで同氏にインタビューしたB. Kiernanの記述とは異なっている。 文献 によると、サロット・サルは水田で農作業をしたことはなく、6歳 の時にプノンペンへ送られ、タマヨット派の寺院で1年間見習いをしたあと、8歳 の時にカトリックの私立エリート校エコール・ミシェに入学し、そこで6年間過ごした。 入学には、ポル・ポトのいとこで、モニボン王の側室の1人だったルク・クン・メアクの助力があった。 プノンペンでは、ロット・スオン、チア・サミー Chea Samy、ロット・スオンの妻 、ルク・クン・メアクと一緒にトラサク・ペム通り Trasak Paem Street の大きな家で生活していた。 14歳 の時にプノンペンの高校の入学試験に失敗したため、コンポンチャムのクメール人市場の中にあったノロドム・シハヌーク高校に入学。 以後6年そこで過ごす。 始めにプノンペンへ戻り、郊外にあるルッセイ・ケオ技術学校 Russey Keo Technical Schoolで寮生活をしながら木工を学んだ。 フランス留学から帰国へ [ ] 1年後に奨学金を得て宗主国フランスの首都パリへ留学、の一つであるフランス国立通信工学校(エコール・フランセーズ・ド・ラディオエレクトリシテ、現)に入校して2年間の技術課程を受ける。 フランスには9月に到着した。 留学中にポル・ポトは共産主義者になり、新生のグループに参加した。 このグループは、主としてパリに留学した学生が中心となってに内に作られた「クメール語セクション」に形成された。 メンバーは、ラット・サムオン Rath Samuoeun 、、フー・ユオン、ポル・ポト、ケン・ヴァンサク Keng Vannsak 、チオン・ムン Thiounn Mumm 、トゥック・プーン Touch Phoeun 、メイ・マン Mey Mann 、メイ・パット Mey Path 、チ・キム・アン Chi Kim An 、シエン・アン Sien An 、、、、などである。 リーダーは、ラット・サムオンとイエン・サリだった。 チオン・ムンらは活発に活動していたが、この当時は、フー・ユオンやポル・ポトはむしろ目立たない存在だった。 フー・ユオンは勉強に集中しており、ポル・ポトは個性をあらわしてはいなかった。 ただ、この当時から両者の主張には隔たりが大きかった。 彼らは共産主義グループではあったが、その主義・主張はかなり幅広く、全体としては、共産主義というよりもむしろ反王政派、民族主義だった。 また、母国の共産主義活動からは遊離しており 、観念的であった。 このグループの中で民族主義とは一線を画していたのが、ポル・ポトとイエン・サリである。 パリ時代に、謄写版で発行されていた内部機関紙Khemera Nisitの8月号でポル・ポトは「本来の」 khmaer da'em というペンネームで、、とのに関する記事を書いた。 その他のメンバーが「自由クメール」「クメール人労働者」といったペンネームを使っていたことに比べて、これを以ってポル・ポトがこの当時から人種差別的な傾向を持っていたと推測する文献もある。 またこの時期のイエン・サリは、ソ連国内の少数民族政策を論じたの文章に興味を示している。 その他、書類によって共産党組織をコントロールするスターリンのテクニックに引きつけられたとも述べている。 ポル・ポトは試験に3年連続で失敗し、奨学金を打ち切られたため、12月に船でフランスを後にし、1月14日にカンボジアに帰国した。 その後、チャムロン・ヴィチェア Chamroeun Vichea 私立高校で歴史の教師として働き始め る一方、民主党で活動を行っていた。 この時期は、新たにフランスから帰国したシエン・アン、ケン・ヴァンサク、そしておそらくはユン・ソウン Yun Soeun 、チ・キム・アン、ラット・サムオンらと共に民主党をより左傾化させようと工作していた。 8月、兄のサロット・チャイ Saloth Chhay を介して、コンポンチャム州のヴェトナム国境周辺にあったクメール・イサラク連合 Khmer Issarak Accosiation の本部へ行き、独立闘争に加わる。 その後約1年間生産部隊に配属され、食事の雑用や、耕作用のの運搬などに従事していた。 しかし、パリ帰りのインテリでありながら政治教育、イデオロギー教育を受けられず、幹部やリーダーとして昇進できなかったことに深い恨みを抱いたようである。 また、この時期にと知り合う。 ポル・ポトは本部でのメンバーだと自己紹介したが、その時会見したチェア・ソット Chea Soth によれば、「彼は、闘争に参加し我々から学びたいと言ったが、本当は、実際にクメール人が革命を実行しているかどうかを探りにきたのだ。 彼は、すべては、自己にのみ頼り、独立と自制にもとづいてなされねばならない。 クメール人は何でも自分自身で行うべきだと言っていた。 」 ということである。 、パリで知り合った夫人と結婚した。 結婚にはフランス革命記念日が選ばれた。 カンボジア共産党 [ ] 「」も参照 1953年当時、のインドシナ支配に対して共産主義者主導の反仏活動が起こっており、この活動は中心であるからとに波及した。 にはフランスがを去り、はジュネーヴ協定に従ってカンボジア国内から撤退し、北緯17度線以北のへ集結した。 このため、カンボジア国内のベトナム人左翼活動家の引き上げが始まった。 カンボジア人左翼活動家の中で、フランスで教育を受けた者の一部はヴェトナムの撤退に合わせてハノイへ逃れたが、ポル・ポトは身分を偽って密かにプノンペンへ戻った。 戻った理由は、ベトナムへ戻るクメール人民革命党の幹部と交代するためであった。 こうして、この頃からポル・ポトとそのグループは、クメール人民革命党のプノンペン支部と関係を深めるようになった。 革命運動の実績がないことを考えると、与えられたポル・ポトの地位は高かったが、これは状況の変化によってクメール人民革命党幹部が手探り状態であったためである。 当時のポル・ポトの仕事はに予定された独立後初の選挙対策で、クロム・プラチェアチョン Krom Pracheachon、クメール語で「市民グループ」の意 と民主党との調整役であった。 また、プラチェアチョラーナ Pracheachollana、クメール語で「人民運動」の意。 右派のソン・ゴク・タンのグループのこと の影響を小さくするために、プノンペン市内の活動グループを人民党に集め、また、人民党内部からソン・ゴク・タンのシンパを排除していった。 プノンペン支部党委員会の学生運動担当委員になったと書く文献もある。 またポル・ポトはこの時期に、共産党員の獲得も行っていた。 12月に、ポル・ポトはピン・トゥオク( Ping Thuok、後にソク・トゥオク Sok Thuokまたはヴォン・ヴェト Vorn Vetとして知られるようになる)を共産党プノンペン委員会に紹介している。 、国王は退位し、後に(人民社会主義共同体)というを組織した。 シハヌークはその威光で共産主義などの反対勢力を一掃し、の翼賛選挙で議席をすべて獲得した。 しかし政界では左右両派の対立が続き、シハヌークは必要に応じて左派への歩み寄りと弾圧を繰り返した。 にカンボジア共産党が配布した党の歴史に関する文書では、終わり頃から政府は農村部での革命運動に弾圧を加え始めたとしている。 、ポル・ポトはカンボジア労働者党中央常任委員に就任した。 ただし、ポル・ポト自身は、にに代わり副書記長に選出されたと主張している。 、シハヌークはプラチアチョンのスポークスマンをはじめ15人の活動家を罪名無く逮捕拘留する。 プラチアチョンの機関紙編集長も逮捕され、これらの活動家達16人は死刑を宣告された。 後に彼らへの死刑は長期刑に減刑されるが機関紙は廃刊となり、表立って活動していたプラチアチョングループは消滅する。 これ以後、都市部の急進的左翼は地下に潜行して秘密活動に傾斜していくようになる。 しかし頃までは、後に重要な役割を示す左翼運動家の多くは、教師として左傾化した学生を生み出したり、またそれが急進的なものでないかぎりは比較的自由に政治活動をおこなっていた。 1960年代半ばに入ると、ベトナム戦争へのアメリカの関与が本格化したことで右派の影響力が強まり、シハヌークの使える政治的裁量の範囲は次第に狭まっていった。 2月、シハヌークの外遊中に市で暴動が発生した。 警官により学生が1人殺害されたことから学生の抗議デモが始まり、地方政府が警官をかばうと、最終的に地方警察本部に対する大規模な暴動へと発展した。 シハヌークはこの暴動を左翼による扇動と考え、帰国後ケン・ヴァンサクとソン・センを非難した。 さらに3月8日には、主要な破壊活動家左翼として34人の名前を公表した。 このリストには、都市部の左派知識人のほとんど全てが載っていた。 キュー・サムファンらは国民議会の非難を受け、ロン・ノルは左派の一掃をシハヌークに求め、1955年以来最大の政治危機となり、左翼にとっては最大の弾圧の危機に見舞われた。 しかし、シハヌークはロン・ノルの提案を拒否し、キュー・サムファンらの辞任も撤回され 、リストに挙げられた34人もシエン・アンを除いて特に処罰されることなく終わり、結局は、都市部左翼の状況に関しては元の状態に戻っていった。 また、この暴動事件の最中の2月20日、21日にプノンペンで第3回党大会が開かれ、ポル・ポトが書記長に就任した。 一方、農村部では弾圧が強化され、左翼活動家の殺害や投獄が行われた。 こうした状況のなか5月ポル・ポトとイエン・サリはプノンペンから消え、コンポンチャム州の国境周辺へ移動した。 ジャングルでの地下活動に入ってからサロット・サルは「ポル」というコードネームを用いるようになった。 (「ポル・ポト」という名が使われるようになったのは、4月14日にの新首相として公式に発表されて以降のことである。 それ以前は「ポル」、「同志書記長」、「オンカー 」として知られていた。 )ポル・ポトは以後12年を地下活動で費やした。 末、ポル・ポトはケオ・メアに伴われて国境を越え、でに入った。 ハノイに数ヶ月滞在した後、ポル・ポトは中国とを訪れた。 シハヌークがに滞在しているのと同じ時期に、ポル・ポトも北京に4ヶ月以上滞在し、やらと仕事をしたが詳細はわかっていない。 その後、へ行ったあと再び北京に戻り、始めにカンボジアへ帰った。 ヴォン・ヴェトによれば、ポル・ポトがから帰国した後の初め、カンボジア労働者党は、都市部の勢力に対する闘争と農村部で武装闘争の準備の方針を打ち出した。 文献 によれば、からカンボジア労働者党はの影響下に入ったのち、からは派のの影響下に入っている。 また同年9月には、党名を カンボジア共産党に改名している。 カンボジア共産党は後に として知られるようになり、同党の武装組織はポル・ポト派と呼称された。 ただし、ポル・ポトが帰国した時期は中国で文化大革命が本格化する直前のことである。 時代のは別として、ポル・ポトが文化大革命から思想的な影響を受けたのかどうかははっきりとしない。 ポル・ポト、、、、その他のクメール・ルージュ幹部が文化大革命に対する共感を示す発言をしたことはない。 また、ジャングル入りした学生の証言によれば、文化大革命前の毛沢東主義のスローガンは好まれていたが、文化大革命は事実上無視されていた。 「ジャングルの中では、北京放送を聞いて流れてくるスローガン(「張子の虎」、「農村から都市を包囲する」、「小から大へ」など)を取り上げてはいたが、文化大革命に関する会話も教育も、毛沢東思想に関する勉強も行われていなかった。 党の方針は、困難で長引くが最終的には確実に勝利するはずだという闘争のことばかりだった。 都市部には毛沢東の翻訳本はあふれていたが、農村部にはなかった」という。 文献 では、ポル・ポトやイエン・サリは、オポチュニストとして、文化大革命の思想とは関係なくむしろ利用されつつ中国を利用したという見方が示されている。 この見方は、他の文献 にも見られる。 、ポル・ポトはカンボジア東北地方のジャングル内にカンボジア共産党の訓練学校を作り9日間の政治レクチャーを行ったが、その間中国についてほとんど言及せず、文化大革命についてはまったく述べなかったという。 この時期、クメール・ルージュの都市部の拠点は壊滅しており、辺境部のジャングルに点々と小さな左翼集団があるだけで、左翼集団間の連絡も容易ではなかった。 ポル・ポトのの発言によれば「連絡のためには徒歩で行ったり、象の背中に乗って行かねばならず、また、連絡用ルートを遮断した敵を避け続けねばならなかったので、1ヶ月が必要だった」という。 4月、の ()で、政府による強制的な余剰米の安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる。 1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1あまりが北ベトナム政府と(ベトコン)に買い上げられており 、シハヌークの外遊中、ロン・ノルにより南ベトナム解放民族戦線への米の供給を止めるために、強制的に余剰米を買い上げする方針が打ち出された。 しかし、政府の買い付け値はベトナム人による買い付け値よりも低く、地元の共産主義勢力は反米反政府のビラを巻き暴動を煽動した。 サムロート周辺の暴動鎮圧作戦は数ヶ月間続き、この後、シハヌークはプノンペンの共産主義者達への弾圧を一層強化した。 同じ頃より、ポル・ポトは中国に支援されてカンボジア政府に対するを始めた。 クーデターと内戦の激化 [ ] は、シハヌークが南ベトナム解放民族戦線を支援していると見なして将軍を支援した。 その結果、1970年3月18日にロン・ノルはクーデターを起こし、シハヌークを追放した。 北京に亡命したシハヌークは、挽回を図りポル・ポトと接触した。 元々クメール・ルージュとシハヌークは不倶戴天の敵であったが、ここに共闘関係が生まれた。 ポル・ポトは元国王の支持を取り付けることで、自らの正当性を主張できると考えた。 同年は、と隣接する解放戦線の拠点を攻撃するためにカンボジア国内への侵攻を許可した。 以後アメリカ軍とカンボジア軍はなどの都市や農村部に激しい空爆を行ったため、農村インフラは破壊され数十万人が犠牲となり、米軍の爆撃開始からわずか1年半の間に200万人が国内難民と化した。 また、ロン・ノル政権は汚職が蔓延し都市部しかコントロールできなかったため、シハヌークの人気と米軍によるカンボジア爆撃は、クメール・ルージュへの加入者を増加させ、ポル・ポト派の勢力拡大に有利に働いた。 また、食糧生産も大打撃を受けた。 には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたカンボジアは、には耕作面積5万ヘクタールとなり28万2000トンの米を輸入し、米の値段は10リエルから340リエルにまで急騰した。 アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している。 こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。 の不安定化、特に「ベトナムの聖域を浄化する」アメリカ軍のカンボジア猛爆がなければクメール・ルージュが政権を獲ることもなかったであろうという考察もある(のの著書『Sideshow』がこの点に触れている)。 民主カンプチアの指導者として [ ] 「」も参照 、によって米軍がベトナムから撤退した。 それと同時に南ベトナム解放民族戦線はカンボジアを去ったが、クメール・ルージュは政府軍との戦いを続けた。 、クメール・ルージュは首都を占領した。 ロン・ノル政権は崩壊し、国号がに改名される。 またポル・ポトもこの間に自身の名前を「サロット・サル」から「ポル・ポト」へ改め、暗号名は「 ブラザー・ナンバー・ワン」となった。 1976年、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任する。 民主カンプチアの国家体制はポル・ポトがのモデルと考えたカンボジアの山岳のの生活を理想とする極端な・であり 、中国の毛沢東思想の影響も受けていた。 その実現のために、学校、病院、工場も閉鎖し、銀行業務どころかそのものを廃止する一方、都市住民を農村に強制移住させ、食糧増産に従事させ、中国ののように人々に ()を着用させた。 病人・高齢者・妊婦などのに対しても、オンカーは全く配慮をしなかった。 これは世界でが繰り返されてきたの歴史から見ても例のない社会実験だったとされる。 民主カンプチアの国民の多くはどころか移動手段を所有することも禁じられてを強いられていたにも関わらず、ポル・ポトらは黒い農民服を身にまといつつを公用車に使用していた。 に戻すためにの利器を殆ど一掃したため、手作業でやなどの施設 や、総延長1万5000キロもの巨大な水路が建設された。 更に生産された米の多くは中国からの武器調達のためにに回されたため、国民の多くは飢餓、、過労による死へと追いやられていった。 このような惨状を目の当たりにしたポル・ポトは、自身の政策の失敗の原因を政策そのものの問題とするよりも、カンボジアやオンカー内部に、裏切り者やスパイが潜んでいるためであるとして猜疑心を強めた。 このような猜疑心は、後に展開される党内での粛清、カンプチア人民へのの大きな要因の一つとなっていった。 ポル・ポトやの所長だったらオンカーの幹部の多くはで出身だったが、高度なや教養はポル・ポトのの邪魔になることから眼鏡をかけている者(ポル・ポトの右腕は眼鏡をかけていたにも関わらず)、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害しており 、この政策は歴史的にもの最も極端な例とされる。 伝統的なの形態を解体する一方でオンカーの許可がないやも禁止され 、ポル・ポトは親から引き離して集団生活をさせられ、幼いうちからオンカーへの奉仕を強いられた10代前半の無知で無垢な子供を重用するようになったため 、国内には子供の医師までもが現れて人材は払底を極めた。 ポル・ポト政権下での死傷者数はさまざまに推計されている。 カンボジアでは1962年の国勢調査を最後に戦争状態に入り、以後1975年までの正確な人口動態が不明となりこうした諸推計にも大きな開きが出ている。 ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万人とした(これはのちに下方修正された)。 フランソア・ポンショー神父は230万人とするが、これは内戦時代の死者を含む。 イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万人、は140万人、アメリカ国務省は120万人と推計するがこれらの機関は内戦時代の戦闘や米軍の空爆による死者数には全く言及していない。 政府の調査団は内戦と空爆による死者が60万人、ポル・ポト政権奪取後の死者が100万人と推計している。 マイケル・ヴィッカリーは内戦による死者を50万人、ポル・ポト時代の死者を75万人としている。 当事者による推定ではキュー・サムファンは100万人、ポル・ポトは80万人である。 、ベトナム国内に避難していたカンボジア人によって構成されるがベトナムの援助を得てカンボジア国内に侵攻、が勃発した。 カンプチア革命軍はの影響による混乱で指揮系統が崩壊しており、わずか2週間でカンプチア革命軍の兵力は文字通り半減する。 、ベトナム軍がプノンペンに入り、ベトナムの影響の強い政権( )が成立した。 この後、ベトナムはカンボジアを完全に影響下に置き、長い間、その影響力を保持することとなった。 ポル・ポトとその一派はの国境付近のジャングルへ逃れ、採掘される売買の利権を元手に反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けた。 余波 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年10月) ソ連とベトナムに敵対したポル・ポトはタイとアメリカから支援された。 アメリカと中国は、ヘン・サムリン政権をベトナムの傀儡であるとしてカンボジア代表の総会への出席を拒否した。 ポル・ポトが反ソ反越であったので、アメリカ、タイ、中国はベトナム支持のヘン・サムリンよりもポル・ポト派を好ましいと考えた。 9月4日、ポル・ポトとシハヌークおよび右派自由主義のの3派による反ベトナム同盟を結んだ。 ポル・ポトは、この終了を求めて公式にに辞職したが、同盟内の事実上のカンボジア共産党のリーダーとして支配的影響力を維持した。 、ベトナム軍はカンボジアから撤退した。 、国連監視下で自由化されたによりが採択された。 選挙結果は、全120議席のうち、が58議席、が51議席、ソン・サンのが10議席、その他1議席であった。 ポル・ポト派はこの選挙に参加せず、新しい連立政権と戦い続けたがころまでには軍は堕落し規律も崩壊し、数人の重要な指導者も離脱した。 死去 [ ] アンロン・ベン県に建立されているポル・ポトの墓 カンボジア政府との和解を試みた腹心のとその一族をポル・ポトはに殺害。 その後クメール・ルージュの軍司令官がポル・ポトを「裏切り者」として逮捕して終身(自宅監禁)を宣告。 タ・モクは1998年4月に新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行った。 ポル・ポトはのため1998年4月15日に死去。 しかし遺体の爪が変色していたのでまたはの疑いもある。 遺体は兵士によって古タイヤと一緒に焼かれた後、そのままその場所に埋められた。 ポル・ポトの後妻と後妻との間に生まれた1人娘が火葬に立ち会った。 後妻と娘は「世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫であり、父でした」と発言。 埋葬直後には墓は立てられなかったが、のちに墓所が建てられた。 墓碑などはなく、粗末な覆屋の看板に「ポル・ポトはここで火葬された」とのみ記されており、溶けかかったタイヤとともに遺骨が土の上に、むき出しの状態で、置かれている。 以前はここに建物が立てられていたとも言われるので誰かが墓を崩壊したとも見られている。 死後アンロンベンに豪勢なが建てられたタ・モクとは対照的である。 脚注 [ ] []• Brother Number One, David Chandler, Silkworm Book, 1992 p. Notablebiographies. com. 2009年2月27日閲覧。 Kiernan, The Pol Pot Regime---Race, Power and Genocide in Cambodia under the Khmer Rouge, 1975-1979 third edition , Yale University Press, 2008, , Preface to the third edition. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , 2004, , pp. 25-27. ラルース世界史人物辞典• Kiernan, The Pol Pot Regime third edition p. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. kerinan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. Chandler, Brother Number One;A Political Biography of Pol Pot,• 根拠となる資料をはっきりと明示してはいないが、の公式発表による自伝が生年をとしていることと、に表面上リタイアを声明した際に生年をと認めたことによるようである。 Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. Kiernan, The Pol Pot Regime third edition , p. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 26-27. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 119. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 121. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 121. 井川一久編著「新版・カンボジア黙示録」田畑書店、p. 201• Kiernanm The Pol Pot Regime third edition , p. Keirnan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 120. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 121. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 122• Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 176. 後に重要なポジションにつくことになる左翼主義者ネイ・サラン Ney Sarann 、ヴォン・ヴェト Vorn Vet 、シエット・チェ Shiet Chhe も同じ高校で働き始めた。 井川一久編著『新版・カンボジア黙示録』田畑書店、p. 200. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 122. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 122. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 123. 『新版・カンボジア黙示録』によれば、クメール・イサラクではなくクメール人民革命党になっている。 Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 124. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 155. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 157. 157によれば、クロム・プラチェアチョンはクメール人民革命党の偽装合法政党のことである。 しかし、井川一久編著「新版カンボジア黙示録」p. 203によれば、クメール人民革命党の偽装合法部分は民主党であると記述されている。 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」p. 200. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 172. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 188. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 193. デービッド・P・チャンドラー著『ポル・ポト伝』めこん、p. 104. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 198. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 199. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 200. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 202. 閣僚だったキュー・サムファンやフー・ユオンの名も載っていた。 ポル・ポトとイエン・サリもリストに挙げられている。 34人の名前全てについては、B. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 242を参照。 Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 202. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 203. Kiernan, How Pol Pot Came to Power secomd eidtion , p. 200. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 203. Kiernan, The Pol Pot Regime third edition , p. 327. クメール語で「組織」の意味。 Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , pp. 219-220. Kiernan, The Pol Pot Regime Came to Power third edition , p. 126 によれば、らよりもとの接触が多かった。 Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , pp. 222-223. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 224. 井川一久編著「新版・カンボジア黙示録」田畑書店、p. 191. Kiernan, The Pol Pot Regime third edition , p. 127. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 260. 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店、p. 266• Kiernan, The Pol Pot Regime third edition , p. 127. 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店、p. 204. Kiernan, How Pol Pot Came to Power second edition , p. 290. 清野 真巳子『禁じられた稲-カンボジア現代史紀行』連合出版、p. 『NAM』同朋舎出版、見聞社編、p. 532• チャンドラー,『ポル・ポト伝』p. 131• チャンドラー,『ポル・ポト伝』p. 131• チャンドラー,『ポル・ポト伝』p. 131• ダニエル・エルズバーグ著「ベトナム戦争報告」p174,筑摩書房• 「インドシナ現代史」p103,連合出版• 「インドシナ現代史」p104,連合出版• Quoted in David P. Chandler, Brother Number One: A Political Biography of Pol Pot, Silkworm Books, Chiang Mai, 2000. Chandler, David P. 1992. Brother Number One: A Political Biography of Pol Pot. Boulder, San Francisco, and Oxford: Westview Press. Frings, K. Viviane, Rewriting Cambodian History to 'Adapt' It to a New Political Context: The Kampuchean People's Revolutionary Party's Historiography 1979-1991 Wayback Machine in Modern Asian Studies, Vol. 31, No. October 1997 , pp. 807-846. Osborne, Milton E. Sihanouk Prince of Light, Prince of Darkness. Honolulu: University of Hawaii Press, 1994. Jackson, Karl D ed 2014 Cambodia, 1975—1978: Rendezvous with Death, Princeton UP, p. 110• Jackson, Karl D 1989. Cambodia, 1975—1978: Rendezvous with Death. Princeton University Press. 219. Ervin Staub. The roots of evil: the origins of genocide and other group violence. Cambridge University Press, 1989. 202• 1983. Revolution and its Aftermath. 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ポルポトの革命|メガネをかけていただけで殺される

ポルポト

1975年に独裁者ポル・ポトによる独裁政治で国民の大虐殺が始まったとされています。 この虐殺によって多くの命が奪われました。 全く罪もない人、ポル・ポトの政治に賛同した人も虐殺されていきました。 国全体の人工が大きく減るほどの虐殺でした。 この虐殺にはカンボジアの独裁者ポル・ポトの異質な思想が大きく関係していたとされています。 独裁者ポル・ポトのその歪んだ思想によりこのような、罪もない多くの国民が残酷な方法で拷問、虐殺されていったようです。 なぜそのような思想に至ったのか、なぜこのような大量虐殺を実行したのか、その大量虐殺の詳細な内容はどのようなものだったのか、カンボジアの独裁者ポル・ポトとはどのような人物だったのかなど、詳しく調べて紹介していきます。 1960年、ポル・ポトは密かにカンボジアの首都プノンペンでカンボジア共産党を結成しました。 これは、共産主義運動でもベトナムの指導から離れてカンボジア人を主体とした運動とすることを表明したものになります。 ポル・ポトは結成時には党内序列第三位でしたが、1963年に党書記となり実権を握ることになります。 と同時にジャングルに潜り姿を消したとされています。 このポル・ポトを主導とするカンボジア共産党を、ポル・ポト派、クメール・ルージュと呼ばれています。 1965年からはベトナム戦争が激化しました。 この頃、ポル・ポトはシハヌーク政権打倒を目指してゲリラ活動続けながら、中国に行き毛沢東とその文化大革命に強い影響を受けていたようです。 ポル・ポト派は1968年から反政府の武装蜂起を開始しました。 特にロン=ノル政権やシハヌーク派の官僚、教員やマスコミ関係者などの知識人がまず標的とされました。 この時に掲げられたスローガンは「国の発展のために知識人、医者、職人、教師、などがいたら名乗り出て欲しい君たちの知識、技術が必要だ」というものでした。 ポル・ポトの掲げたこのスローガンを信じたものは続々とポル・ポトの元に集まったとされています。 このスローガンは海外にいたカンボジア人のところにも発信されていたようです。 苦しい農作業から解放されると喜び集まった者も多くいました。 しかし、その集められた人たちは全て機関銃により射殺されていまいました。 ポル・ポトの政治にはこういった知識人は邪魔であったとされています。 この他にも抵抗する人や、芸能人、歌手、俳優、僧侶、ちょっとした有名人も殺害されました。 この無差別虐殺ともいえる大量虐殺により多くの大人が殺害されました。 そして、多くの子供が残されました。 これこそがポル・ポトの狙いだったとされています。 無垢で純粋な子供に洗脳教育をし、ポル・ポトを神に近い存在と認識させることが目的のようでした。 教育を施された子供たちは兵士として、強制収監、強制労働している大人たちを監視、拷問、殺害していたという常識では考えられない状態だったようです。 子供たちはポル・ポトを神、それ以外をスパイとして見る様に洗脳されていたようです。 そして驚いたことに、子供たちに医師の代わりもさせていたようです。 しかし、子供であることに変わりはないので当然医学の知識などありません。 よって子供たちは診察や手術と称し、傷口を引っ張ったり、メスで適当に体を切るといった行為をしていたようです。 子供たちは民家の軒下などに潜み、大人たちの会話等を盗聴していたりしていたそうです。 そして、ポル・ポト政権の政治等の不平不満などを聞いたら、強制的に収容所に連行していったそうです。 その収容所では子供たちによる拷問が行なわれたそうです。 老人、病人、女関係なくペンチで乳首を引きちぎったり、棒で死ぬまで叩き続けたりしたそうです。 また、子供たちはこういった大人を殺害することでポル・ポトから褒められるため、殺害や拷問に積極的だったようです。 純粋な子供の心を利用した、人間とは思えないほどのポル・ポトの政治、虐殺は徐々に範囲を拡大していきました。 そして、ベトナムに侵略して住民を虐殺したことでベトナム軍がカンボジアに侵攻を開始いました。

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